「先生」

「先生」という言葉は便利だなと常々感じる。
学校や市議会、病院など「先生」が溢れている現場では、
「先生」と呼びかけていれば、ほとんどの大人が応答する。
いちいち、それぞれの名前を覚える手間がいらないのは、楽だ。
「誰でも先生」ってのは都合がいい。
ただ、普段から「先生」「先生」と、「先生」を多投しすぎていると、
自分の中の先生、本来の意味での、個人的な「先生」の記憶を霞ませることになったりする。

「先生」というのは、その言葉が表すように「先に生まれた人」で、
常に生徒とは非対称に存在している。
先に生まれた「先生」たちは、
構造上、教室の教壇のような一段高い位置から言葉を垂れることになるので、
一段高い下駄をはかされた「先生」たちは、
その高さと経験の差異を利用して、
「生徒」たちになにかを教えたり、諭したり、育てたりする。
教えられる側の人たちは、まだ、「先生」が履いている下駄の高さを見抜けなかったり、
見抜けたとしても、「教え-教えられ」の構造が、
その高さを失くすことを許さなかったりするので、
どうしても、「先生」の下駄を簡単に脱がすことができない。
ただ、時間が経ち、対等に見られなかった「先生-生徒」の関係から距離を置き、
フラットな目で自分たちの関係を見れるようになった時、
まだ、記憶の中の先生が、「先生」としての威厳を保っているならば、
その「先生」は、本来の意味において、「先生」だったといえるのだろう。
下駄を脱がしても価値のある人のことを、ぼくたちは「先生」と、
こころの中で呼んでいるような気がする。

下駄を脱がせても自分より大きな、こころの中の「先生」に対しては、
その大きさゆえに、自分を偽って見せる必要がない。
どんなに自分をごまかしても、自分を大きくみせようとしても、
その「嘘」を見透す「先生」に対しては、去勢を張る必要がまったくない。
「先生」に対しては、恥もてらいも見栄も謙遜もなく、
全力でぶつかれることができる
「先生」より小さな自分ができることは、
自分をちょっとでも大きく見せることではなく、
自分のありのまま、自分が出せる全力を出してみせるということだけ。
先生を前にすると、そういうことがわかる。
「先生」には威厳や畏怖がついてまわるが、
基本的には、「先生」という存在は、そういった「安心」を与えてくれる。
自分の卑小さもセコさも全部受け入れてくれる大きさが「先生」にはあり、
その大きさの中で、ぼくらは許容される範囲の失敗を繰り返す。
それは、学校のような、
一般的な意味での先生と生徒の関係でも見られるだろうし、
「私淑」という言葉に見られるような、
一度も会ったことのない人同士の関係の中にも見られるのだと思う。
「先生」は、別に、会ったことない人でも、死んでいしまっていてもいいのだ。

「現実」の中で、安易に「先生」を多投していると、そのことをつい忘れてしまう。
誰か、「先生」とは別に、こころの中の先生の呼び名を作ってくんないかなあ。