デタラメ

テレビの中で、北陸かどこかの刺繍職人が
布地にひと針ひと針糸を縫っていく。
自然染料で染められた糸で縫い合わされたデザインは
いろんな模様が並ぶ、抽象的な図柄。
「どういうイメージで縫われたんですか」
そう、NHKかどこかのアナウンサーが聞くと、
「そんなもん、デタラメだよ」と
職人さんは、鼻で笑うように答えた。

職人さんは「デタラメ」と言うが、その「デタラメ」は、
「めちゃくちゃ」ではなく、「ランダム」のこと。
何か明確な意思があって作ったわけではなく、
手のおもむくまま、”適当”に刺していったらデザインが出来ただけ。
「デタラメ」でやっただけなんだから、
「どういうイメージですか」とか聞くんじゃねえよ、と職人さんは笑う。

デタラメに針を刺していくことは誰にだってできそうだが、
素人が何度もデタラメを繰り返していくと、
そこにはどうしても規則性が生まれてしまう。
規則性が生まれたら、それは「デタラメ」ではない。
刺繍の基本を身につけ、
「こう動かせばこういう模様ができる」と分かっている人だけが、
それを避けるように無意識に手を動かし、
「デタラメ」に針を進め続けることができる。
それは、例えば、即興でジャズを奏でるピアニストと同じ。
基本のジャズの旋律、リズムを叩き込まれた人だけが、
デタラメに鍵盤を叩いていられる。
ジャズの基本を知らない僕がデタラメに弾こうとしても、
そのデタラメは1分と持たない。
すぐに、前に自分が弾いたデタラメの形をなぞって、
同じような鍵盤の場所を叩くに決まっている。
「デタラメ」は、「教科書通り」の何倍も難しい。
「そんなもんデタラメだよ」と言えるのは、
「デタラメにだってやれるんだよ」
という、腕のある職人さんの、余裕の発言なのだ。

この「デタラメ」は、子どもの発想に関しても同じで、
子どもは大人に比べて常識にとらわれず
突飛な発想をポンポン出すことができるが、
それは荒唐無稽なアイデアを出す時にのみ限られる能力だ。
大人が驚くアイデアを一つ二つは出すことはできても、
何個もアイデアを連ねていこうとすると、すぐに種はなくなり、
出すべきアイデアの範囲に枠をつけると、
途端に、子どもの発想はこじんまりしたものになる。
子どもは、まだ枠をはみ出す「デタラメ」なアイデアが出せるほど、
「枠」のことを知らない。
どこまでが「枠」かを知らない子どもは、
「枠」からはみ出すすべもわかっていない。
まだ、「デタラメ」な発想にはほど遠い。
だから僕は、あまり子どもの想像力に期待しない。
例題を何個も見せて「枠」を覚えさせ
サンプルを何個も見せて「枠」の外れ方を覚えさせた上で、
ようやく、子どもに発想させる。
「枠」を意識しないところにクリエイティブは生まれようがない。

そういった考えは、「守・破・離」と言われる考え方で、
武道や芸事でよく使われる”物事をマスターする際の段階的な考え方”。
もちろん、私が発見した考え方ではなく、ずっと日本人が使ってきた考え方。
私は、日本でずっと言われている考え方の一例として”職人さん”を挙げただけで、
「枠」の中で、長年言われていることを復唱しているだけ。
子どもたちの想像力に期待していない僕は、
同じように、自分の想像力にも、何一つ期待していない。

「枠」をはみ出し、「デタラメ」に発想できるほどには、
僕は、まだ、「枠」を熟知していない。