傷つけて

こどもの頃、「車に傷が付いていてはいけない」ということが驚きだった。
車はいろんなところをすごい速度で走っているわけで、
走っていればなにかの拍子に傷はつくだろうし、
停まっていたとしても、
通りすがりの悪い中学生が、10円玉をガリガリとボディにすりつけるだけで、
立派な傷がつく。

「車はいつも無傷のままで保ってないといけない」なんて、
普通に生活しているだけで、腕や足にたくさんのすり傷をつけていた中学生の僕からしたら、
どう考えても無理な相談で、
「万が一、車に傷がついた場合は、
すぐにキレイに直さないと、だらしない奴とみなします」だなんて、
なんてこの世は、気の抜けない社会なんだと思った。

この社会って、息が詰まっちゃいますね。
そう言いながら、”車無傷社会”に対する疑問を周りに投げかけていると、
「ボディについた傷は、すぐに直さないと錆びてしまって後々大変なのよ」
と年上のお姉さんが、説明してくれた。
だけど、なにかの拍子に、中東の街の写真を見た時、
そこに写っている車のほとんどのボディが、ボコボコにヘコんでいたのを見て、
ほらね、やっぱり、
別に、車はへこんだり傷ついたまま走っていても構わないんじゃないかと思った。
車に傷がついていてはいけないのというは、日本人だけの感覚なんだと。

そんなことを、昨日、歯医者さんの駐車場に停めてあった、
テールライト部分がべっこりヘコんだ軽自動車を見ながら思い出したのだけど、
僕は、親知らずを抜いてもらうために歯科医院へ来たので、
車のヘコみを見ながら、病院の中へ入っていった。

真横に生えてきている左下の親知らずは、
麻酔をした上で、注意深く抜かなくては危ないらしく、
前日に、歯科医院から、体調確認の電話までかかってくる念の入れようだった。
親知らずを抜くのは、僕が思っているよりも、相当、慎重を擁するらしい。

待合室では、お昼のワイドショーがテレビから流れていて、
見上げると、フィギュアスケート選手が不倫をしたとかなんかで、
コメンテーターたちが、自分には関係ない話について、興奮しながら、
自分たちの感想を話し合っていた。

そのスケート選手が、
奥さんがいるのにクラブで知り合った女性と関係を持ったとか持ってないとか、
自宅があるのに近くのホテルに泊まったとか泊まってないとか、
そんなこと、お昼の全国放送で話すことかなと思いながら僕は見ていたが、
なにやら、
その選手が泊まった際もらったホテルの領収書の宛名が女性だったことが焦点らしく、
「これはどうみても怪しいですね!」と、
コメンテーター達は、さらにヒートアップしていた。

領収書の宛名が女性なのがなにやら疑わしいだなんて、
さぞ、そのスケート選手もびっくりしたことだろう。
それまで、領収書の宛名に、そんなに神経を尖らせたこともなかったはずで、
自分の領収書の宛名を巡って、知らない人たちがテレビの中で話し合っているなんて
考えもつかなかっただろう。

そりゃ、女性の名前で領収書をもらったという部分に注目されたら、
なんかあってもなくても、都合のいい推測はいくらでもされるだろうが、
そこには、その領収書をもらうに至った流れがあるはずだ。

流れや前後を無視して一点だけをクローズアップすれば、
なんでも物事はスキャンダラスになり、炎上のための火種になる。

実際に、そのスケーターが不倫をしてようがしてまいが僕にはどちらでもよいけれど、
スケートリンクの上で魅力的な演技をしようとしてきた人が、
領収書の宛名の件でやり玉にあげられるのは、気の毒な気がする。
スケーターは、スケート技術を上げることだけを考えてきたのであって、
領収書の書き方を勉強してきたのではない。
ものごとの前後を無視して、一点だけを大きく取り出してけちをつければ、
どこにだってけちをつけるだけの隙きはある。
その隙きを突いたけちの付け方が、
ただの一方的なクレームやいいがかりだったとしても、
けちをつけられ、「疑惑」を生んだというだけで、
けちを付けられた人は、周りの人々から距離をおかれ、慎重に扱れるようになる。

元日産のゴーン会長が、今後、裁判で勝って、無罪放免になったとしても、
世間のゴーンさんのイメージはもう元には戻らないように、
一つの疑惑が生まれるだけで、それはそのまま、その人の傷として残る。

みんな、その傷が一つでも付くのが怖いから、
余計なクレームがこないように、余計なアンチに見つからないように、
リスクのある場所から遠ざかり、
安全第一にことを進めようとする。
誰にだって、生きていれば傷の一つや二つは抱えているはずなのに、
他人のこととなると、人々は小さな傷を大きくクローズアップするし、
自分の傷が大きく報道されることを恐れる人々は、
傷つく恐れのあることを慎重に避け、
過去に傷を受けたことを必死に隠そうとする。

そう書くと、大人はなんだか傷だらけみたいだが、
傷を負っているのは心の中だけで、体に傷を受けているわけではない。
物理的に、体に傷をつけているのは、大人よりも子どもで、
中学生も高校生も、手足をペダルにぶつけたり、擦りむいたり、虫に刺されたりして、
とにかく体中に、傷やあざがある。
アニメの中の高校生や、雑誌に登場するかわいいティーンの、
加工・修正された、つるんとした手足とは違い、
傷だらけの彼らの手足は、
大人よりもからだを動かして毎日を過ごしていることを示しているが、
彼らの肉体は若く、手足についた傷も、片っ端から治していく。
治ってはぶつけ、傷ついた部分も、また、すぐに治っていく。
そのリカバリーの速さに比べて、大人の傷は、治りにくく、
一つの軽い傷がまったく治らず、
何年間も、ずっと引きずっていたりする。

そういう大人の治癒の遅さや、
体よりも心にたくさんの傷がついているということは、
大人こそ、じゅうぶんわかっているはずなのに、
なぜか、最近の大人は、お互いの傷を、ワイワイ喜んで、ほじくりあっている。
みんながこころに抱えている傷をあえて取り上げて、騒ぎ立てるのは、
中学生が、クラスメイトのニキビを笑うみたいで、
なんだか、子どもじみている。

時に、大人は子どもよりも子どもっぽいのか、
いつまでたっても大人は子どものままなのかはわからないが、
詩人の谷川俊太郎は、ある詩の中で、こう言っていた。
「どんな喜びの大海にも、悲しみの涙が一滴、混じっていないということはない」と。
そう。
どんな喜びの中にも、悲しみは混じっている。
子どもの喜びには、純粋な喜びだけでできあがった喜びもあるが、
大人の喜びの中には、かつての悲しみの涙が、どこかに、一滴混じっている。
大人はそれを知っているはずなのに、
なぜ、大海の中に漂う悲しみの涙をわざわざすくいあげて、
皆で、囃し立てるのか。
時がたてば大海の中に溶けていきそうな悲しみは、
見過ごしてあげればいいじゃないか。

手足に残る小さな傷や、顔にできたニキビをとりたてて笑うのは、
子どものすることだ。
大人が昼から、全国放送のテレビでやるようなことではないように思う。
僕はこれから、親知らずを抜かなくてはいけないのだから、
感情を乱すようなことはやめてほしい。
親知らずを抜くのは、僕が思っているよりも、慎重を擁するものなのだから、
どうでもいいことを囃し立てて騒ぐのは、やめてほしい。