合う文体合わない文体

新しい歌は、日々、世の中に発表されているけれど、
日々、繰り返し聴く歌は、10代の頃に聴いていた歌だったりする。
それは、歌だけでなく、本も同じで、新しい作家や著者の本はたくさん出ているけれど、
何度も繰り返し読む本は、20代前半の頃に読んだ本だったりする。
同じ本を繰り返し読む中の、その繰り返しの中に、
新しい発見があったりなかったりする。

「よく読んだ作家の文章は、3行読めば、それが、その作家の文章だとわかる」
そう言ったら、周りに「ウソつけ」と否定された。
「3行は、おおげさ」
「3行では、無理」
何度も繰り返し読んでいる本でも、
少し読んだだけでは、誰の文章か、わかるはずもないという。

3行読んだだけではわからないと、周りは言うけれど、
それが文章でなく音楽なら、それほど否定もされなかっただろう。
「好きなミュージシャンの曲なら、3小節聞けば、それが、そのミュージシャンの曲だとわかる」
そう。
音楽なら、みんなわかってくれる。
それは、メロディやリズムには、作り手の癖が見つけやすいからかな。
それとも、音楽家は、文章書きよりも、多作に見えるからかな。

それでも、やっぱり作家には文体ってものがあって、
おおげさでもなんでもなく、片手で数えるくらいの作家の文章は、僕でも、
3行読めば、「あ、あの人の文章だ」と気づくことができる。
もちろん、その人の文体に似せて書いた文章を、一発で、
というか「3行」で、
「こいつは、本物に似せた偽物!」と見抜くことはできなそうだけど、
「どっちが本物でしょうクイズ」みたいに、本物と偽物が比較できる設定だったら、
正解できる自信があるような、ないような、
ないけど、とりあえず、試してみたいような、気分。

そんな気持ちになるのは、本を意識せずに、ぺらぺらめくっている時に、
ふと、「あぁ、この文章は、〇〇さんの文章みたいだなあ」と思うことがあるからだ。
そして、それは、やっぱり、〇〇さんの文章だったりするので、
「3行の壁」は超えれるんじゃないかと、自分では、思ってしまう。
でも、本当は、その時、「これ、〇〇さんが書いた文章なんじゃないかな」というよりも、
「この文章書いた人、〇〇さんに影響受けてるんじゃないかな」と思うことが多いので、
(そして、実際は「〇〇さん自身が書いた文章」なので、)
もしかしたら、「3行の壁」は超えられないかもしれない。

作家が持っている文体は、読者の耳元で聞こえる息づかいみたいなものなので、
読者のからだに合う・合わないが、はっきりとある。
初めて読むのに、自分の息や鼓動と同じリズムで文章をつづる作家さんがいる一方で、
どこまでいっても、自分と呼吸や鼓動が合わない作家さんってのもいる。
僕の場合、どうしても合わないのが、西加奈子さん。
インタビュー記事での発言は、とても納得することが多いし、
ラジオなんかでの発言では、膝を叩くようなことを言ってくれるのに、
小説となると、まったくページが先へ進まない。
人物として西さんを好きなだけに、諦めるのは悔しく、
今後こそはと思いつつ、なんども違う小説にトライしてみるけど、
ことごとく、途中で終わる。
力尽きる。
これが、文体ということ。
どうしようもない、合わなさ。

ただ、自分の息遣いは、歳とともに、変わっていく。
大学生の頃に好んで読んでいた本を久しぶりに読み返すと、
その内容ではなく、その文体が自分と遠く離れてしまっていて、
まったく読み進められなくなっているように、
年齢によって、自分の状態によって
合う文体、合わない文体はあるみたい。
だから、あきらめることはないのかもしれない。
今後も、今度こそはと思いつつ、西さんの新作の小説にチャレンジし続けてもいいのかもしれない。
西さんは、時機待ち。
タイミング待ち。
いつか、呼吸が合う、然るべき時が来るのを、待つばかり。