学校指定のダサさ

 

高校のジャージのダサさは絶望的だった。
全員が着る体育のジャージは、
近所のオヤジが穿いてそうなえんじ色で、
ズボンの裾は、ゴムで、キュッと絞られていた。
ダサジャーを着た体育の時間は、皆、一様にダサかったが、
ある日、体育の先生が僕と、あるクラスメイトの側に来て、
「ジャージ新しくする話があるんだけど、どうしたい?」
と何気なく聞いてきた。
あまりの唐突な幸運に
「え、まじですか?どうする?」と隣を向くと、そいつが
「え、でも、いまのジャージ、まあダサいけど、
みんなダサいんで、別に変えなくていいっすよ」
と言った。
「えっ?」
僕が絶句している間に先生は「そっか」と言い、話は終わってしまった。
クソダサいジャージを変える千載一遇のチャンスは、
「みんなダサいからダサいままでいい」
という謎の理由によって潰された。

学校の制服や部活のユニフォームは、
あまりかっこいいことを意識しないというか、
むしろそれを嫌悪している。
私学の制服が公立高よりかわいいと、
制服で生徒を釣ってるとか、
だから風紀が乱れるんだなどと、陰口を叩かれてしまう。
確かにそういう面もあるのかもしれないが、
それでも、ダサいって放置しておいていいものだろうか。

戦前の海軍学校の制服姿は、女学生には眩しかった(とばあちゃんが言っていた)。
往年のPL学園のユニフォームも、野球少年には眩しかったし、
今も、宝塚音楽学校の制服を眩しく見ている中高生は多くいる。
それら、憧れの対象になった生徒はすべて、
見られることを意識することで自分たちを律しているところに輝きがあった。
制服がダサいからかっこいいわけでも、
制服がかっこいいからかっこいいわけでもなく、
制服を着た存在自体が、かっこよかったのだ。
だから、彼らは制服を着崩さない。
制服を、ちゃんと着ていることがかっこ良さなのだ。

まあ、そんな成功モデルは現実には少ないし、
制服をかっこよくすれば憧れの存在になるわけでもないし、
ただでさえ自意識の強い中高生に、
他人からの見られ方を強く意識させるのがいいかどうかわからないが、
だからといって、ダサさは放置しておいていいものだろうか。
学生は「どう見られるか」よりも「どうモノを見るか」を気にしてればいいと思う「ダサさ容認派」の僕が、
ダサさの放置についてこうまで言うのは、
世の中が「デザイン」をこれまで以上に重要視しているからだ。
どんな分野においても、
機能だけでなくデザインを考える視点が不可欠になっているのに、
学校は「かっこいいとは何なのか」を考えさせなくていいのだろうか。

超かっこいいiPhone初号機が世界を席巻していた十数年前、
「あれに搭載されている技術は、全部日本にあるよ」
と言った日本の技術者がいたという。
そうかもしれないが、
もう世の中は技術の高さで商品を判断しなくなってしまっていた。
かっこいいかどうかを決めるデザインが大きな要素になってしまった時代に、
「技術では、日本負けてないんだけどなあ」と言った日本のおじさんは、
高校時代、どんなジャージを穿いていたんだろうと、考えてしまう。
そして、アップルで働くような人は、
えんじ色のジャージを穿いていただろうかと。

なんだかんだ社会では、かっこいいかどうかが重要である。
その「本当のこと」を子どもに教えるのは、誰の役目なのだろうか。
もしそれを「おしゃれ」のように個人に委ねるのならば、
ダサいジャージは、放置しておいていいだろう。
でも、もしそれを教育として学校が担うならば、
今すぐ全国の学校は、ジャージの発注元を見なおした方がいい。