教会のクリスマス

今日は12月25日。
イエス・キリストの誕生祭。
ハロウィンが仮装してお菓子をもらうイベントに対して、
クリスマスはチキンを買ってケーキを買って、
子どもが寝てるすきにプレゼントを置くことにはなっているけど、
日中、大人は、えーっと、何するんだっけか。

何していいかわからない日本人(僕)はとりあえず教会に行くことになる。
信者だけで小さく集まるクローズドな教会にはいれてもらえないが、
街の大きな教会は出入り自由で、
クリスマス前後は、より多くの人に門戸を開くために告知までしてくれている。
せっかくなので、教会に行ったことないであろう高校生たちも
一緒に連れて行ってあげる。

高校生の日常から宗教は遠く、
教会で聞く「神」も「精霊」も「御心」も、
彼らには違和感でしかない。
キリスト教徒が当たり前に持っている世界観は
自分たちが当たり前だと思っている日常と違いすぎて、
彼らは神父の言葉を真面目に聞くことすらできていないが、
宗教を肌で感じられただけで、まあ、今日は十分だろう。

高校生が、教会で十字架に手を合わせている人たちのことを理解できないのは、
彼らが「自分と人は違う」と思っているからにほかならない。
あの人が持っている悩みと自分が持っている悩みは違う。
そう思うことで、彼らは他人と自分を区別し、自分を作り上げていく。
しかし、大きくなっていくに従って、
人と自分ってのは、そう違わないことに気づく。
他の人が悩んでいることと自分が悩んでいることとの間には、
対象の違いや関わる人の違いはあるとしても、
悩みの種類に、さほど大きな違いはない。
「人間の悩みには、大してバリエーションないよね」
宗教とは、そうした、神からの目線を介して、人間を見ることだ。
彼らが、十字架に手を合わせる人を自分と違う「他人」と見るのでなく、
同じ「人間」として見れるようになれば、
なぜ人が宗教を必要としてきたかも少しはわかるようになるだろう。

そう思いながら、教会の二階から聞こえる賛美歌を聞いていると、
教会の方々が、クリスマスだけ教会にやってくるような新参者の僕達にも、
暖かいスープをくれた。
教会のキッチンで作ったであろうお手製のミネストローネ。
キリスト教は、食うや食わずの人々に食事を施すことで信者を増やしてきた側面もある。
しかし、飽食の時代、なかなか食べ物だけでは人は寄ってこないだろう。
ミネストローネは美味しいが、
食事ではなく、クリスマスこそが、
普段、宗教に関心のない一般の人を教会の方に向かせる、唯一のチャンス。
是非、この機会を活かして、キリスト教の世界観をみなに伝えてほしい。
そうすることで、日本人は、普段まったく意識しない、
自分たちが当たり前に抱いている信仰心をも思い出すだろう。
ハロウィンなんかに押されている場合ではない。
クリスマスは、ハロウィンなんかより断然、総合的な厚みがあるのだ。
かぼちゃなんかに負けないでほしい。
メリークリスマス。