比較からはじまる

集団の中で、問題を起こしてしまう人がいる。
そういう人は、まわりに迷惑をかけたり余計なことをしたり、
なにかすることで問題を起こす場合もあるし、
周りに比べて何かができなかったり遅かったり、
なにかをできないことで問題を起こす場合もある。

高校生の頃、クラスに余計なことして問題ばっかり起こしているやつがいた。
問題を起こされた方は、
「お前、いいかげんにしろよ!」と怒っていたが、
問題を起こした方は、何が悪いのか、あまりわかっていなかった。

中学生の時、問題になったのは、
何もしないことで問題を起こすやつだった。
他のクラスメートよりも、作業が行動が遅かったりできなかったりしたことで、
「お前、いいかげんにしろよ!」と、周りが怒っていたが、
問題を起こした方は、悪いもなにも、できないのだからどうしようもなかった。

どちらにしても、問題を起こされた方は怒っていたのだが、
怒ってしまうのは、自分たちと同じことを彼らに要求していたからだ。
「自分がやってないからやるな」と要求したり、
「自分ができているからやれ」と要求したり。
できない人にやれと要求しても、できないのだから怒りは溢れるばかり。
さらに、できないからやれと要求しているのに、
本人ができなくて迷惑かけていることを悪いと思っていないことを知れば、
さらに怒りは溢れるばかり。
問題が起こるところには、怒りが溢れてしまう。
しかし、怒りは怒りを呼ぶばかり。
そこで、世の中には、こんな話があることをお話しします。

あるところに、軽度の自閉症の子がいました。
その子は、自分が自閉症だと気づくまで、学校で、よく問題を起こしていました。
それは、彼が、周りのクラスメートと同じようなことができなかったから。
でも、彼は、家では、問題を起こすことがありませんでした。
なぜなら、彼にできることとできないことを、家族はちゃんと、わかっていたからです。
人には、人を、人と、比較して見る癖があります。
自閉症の彼を、彼自身として見る家族にとっては、
彼は、普通の息子で、普通の兄で、普通の孫。
それが、学校のクラスメートや先生にとっては、
他の児童ができている普通の勉強ができずに、
他のクラスメートができている普通のグループワークができない、
普通じゃない子になってしまっていました。
できる、できないというのは、誰かとの、比較の結果だったりします。
比較しなければ、できる、できないということもなかなか明らかになりません。

そういえば、こんな僕の話もあります。
ある日、僕は自分のばあちゃんをたまたま駅で見かけて、
とてもびっくりしたことがありました。

なににびっくりしたって、その、僕のばあちゃんの小ささに、です。
駅で会ったばあちゃんは、驚くほど小さくて、
その小ささは、家にいた時には、一度も気づかなかったような小ささ。
家では、ばあちゃんを小さいなんて思ったことありませんでした。
家で見るばあちゃんは、大きくもなく、小さくもありません。
なぜなら、家には、ばあちゃんが座るサイズのコタツがあって、
ばあちゃんが寝るサイズの布団があって、
ばあちゃんが見るサイズのテレビと、
ばあちゃんがお茶を淹れるのにちょうどいい、ポットと食器棚の距離があるからです。
家は、ばあちゃんになにができてなにができないかを知っているから、
全部、ばあちゃんがなんでもできるサイズになっています。
駅みたいに、他人と比較する人のいないばあちゃんの家の中では、
ばあちゃんは大きくなければ、小さくもありません。
ただの、普通の、ばあちゃん、という、大きさです。

今、振り返ってみると、高校の頃、問題を起こしていたあいつは、
なにかしらコミュニケーション障害があったのかもしれません。
中学の頃に問題を起こしてしたあいつも、
発達障害かなにかだと、今なら診断されていたのかもしれません。
けれど、そうやって病院から名前をもらわなくても、
休み時間には、そいつと僕らは、普通に、友達で、
普通に、仲のいいクラスメートでした。
人が人を人と比べて見てしまうのは、集団で生きる限り逃れられないけれど、
人を人と比べなくていい時も、たくさんあります。

そいつをそいつとして見てやれば、怒りは、どうにか収まったりします。
ばあちゃんの家がばあちゃんをばあちゃんとして認めているように、
そいつをそいつとして認めてやれば、無駄な怒りも静まります。
そんなことを書いたのは、昨日、よく無駄に怒ってしまう人から話を聞いたから。
「言うは易く行うは難し」だよねとわかりつつも、書いておけば自分の戒めになるかなと思ったからです。