汲む

普段当たり前のように
「コミュニケーション」という言葉を使っているけれど、
「コミュニケーション」という言葉が当たり前になる前、
人と人が会話したり関係をもったりすることを、
人はなんと呼んでいたのだろう。
たんに、「会話する」とか、「関係をもつ」と呼んでいたのだろうか。
コミュニケーション能力の高い人のことは、なんと呼んでいたのだろう。
たんに、「愛想がいい」とか「気安い」とか言っていたのだろうか。
ほんの10年くらい前の話だろうに、すっかり忘れてしまった。

「AI」の話でも、「若者の雇用」の話でも、「教育」の話でも、
「コミュニケーション能力が大切だ」という話はいつも話題に昇るが、
人と接する時に大切なものがすべて、
「コミュニケーション能力」で済まされている時、
そこには、大事な何かが抜け落ちているような気がする。

「人の想いを汲む」ということばは、
「人の想いが水のようなもの」だと伝えている。
「汲む」とは、液体をすくうことで、
「想い」は汲まれなければ、こぼれてしまうもの。
人の想い(こころ)を、なにか、堅い、固形物のようなものだと思っていれば、
人の想いを「汲む」ことはできない。
「汲む」ためには、相手のこころに近づいて、両手ですくう必要がある。
その点、相手の調子に合わせる能力である「コミュニケーション能力」とは、
根本的に違う。

解剖学者の養老先生の先生だった人が、
教育に関してだったか、人に関してだったか、一番大切なことは、
「人のこころの痛みがわかること」
だと言っていた。
人のこころの痛みがわかるようになるには、
その痛みを経験している必要がある。
経験したことがないなら、
想像して、我が身のこととして受け止めなくてはならない。
そうやって、人のことを我が事として少しでも受け止めることを、
人は、「やさしさ」と呼ぶ。
それを、「コミュニケーション能力」と呼ぶことはない。

「コミュニケーション能力」が高いに越したことはないし、
愛想のいい人は人を気持ちよくもさせるが、
それは、「やさしさ」とは違う。
だから、人と人が接する時に必要なことを、なんでもかんでも、
「コミュニケーション能力」で済ませないでほしいなと思う。
それは社会を渡っていくために必要な能力であって、
人として必要な能力ではないのだから。
「コミュニケーション」に関する議論ばかりしていると、
なんだか、人としての深みの議論がすっぽりと抜け落ちてしまう。