理屈

 

スポーツや部活で、スパルタ教育がまだ当たり前にあった頃、
選手は、コーチに言われた練習を、ただひたすらやっていた。
選手は、機械のように練習する。
それが”スパルタ”教育の練習風景だった。
近頃は、スパルタ式も見なくなり、
練習前に、練習目的を教えるようなコーチも増えてきた。
何のためにやる練習なのか。
何が目的なのか。
そうやって練習の目的を教えないと、
辛い練習に選手が耐えられないのだという。

単に「踏ん張れ」「頑張れ」とハッパをかけるだけでは今の選手はついてこない。
選手自身が納得した上で、選手自身が目的意識をもって取り組む。
そういう指導法が、どうやらいい教え方らしい。

しかし、選手はまだあるレベルに「到達していない」からこそ、
練習を必要としているのだ。

まだ「到達していない」選手には、
それが適当な練習かどうかを判断する能力は備わっていない。
だから、「選手は納得しないけれど、必要な練習」というのも多くある。
それを、理屈でもって、「これは、必要なんだ」とコーチが、
言葉だけで説得するのは難しい。

まだ「到達していない」選手が納得できる練習だけをして、
あるレベルまで選手を到達させるのは、至難の業だといえる。

それはスポーツに限らず、勉強やしつけも同じことで、
例えば、掃除の大切さなんて、小学生に理屈で言ってもわからない。
小学生にしてみれば、「掃除は大切だ」と理屈を言われても、
それに思い至る経験が、まだない。
小学生が中学生、高校生になり、大人になっていく段階で、
色んな場所の”散らかり”を経験し、
自分のこころの中の”散らかり”も経験して、
だんだんと、気づくのだ。
「掃除って、大事かも・・・」と。
そのことに気づくのは、掃除が身についていた人だけで、
掃除が身についていない人は、掃除をする機会がないので、気づく機会もない。
掃除をする人は、
「部屋を片付けると、こころの中もなんだか片付くなぁ」と気付き、
掃除をしない人は、現実の部屋を散らかしたままに、
「心のなかが全然、片付かないなぁ」と嘆く。
「部屋の散らかりとあなたの心の散らかりはつながっているのよ」
そういう理屈は、大人にならないと響かない。
(響いても、あまり行動に移さない僕のような大人もいる)
まだ理屈の分からない子どもには、理屈で説明してもあまり意味がない。
理屈のわからない子どもには、理屈で説明するより、
身につけさせるしかない場合もある。

身についていれば、理屈はあとで、自然と気づくようになる。

子どもに対して、理屈で説明するのか、しつけだけしておくのか。
やらせる前に納得させるのか、納得させる必要はないのか。
その辺りは、相手の理屈の理解に基づいたケース・バイ・ケース。
人の育て方は、いつも、ケース・バイ・ケース。