自分の生

 

「日本人は自分の人生を生きていないですからね」
そう、日本人のことをある外国人たちに言われたと、
解剖学者の養老先生が書いていた。
日本人は、社会での役割ばかり全うしていて、
個人としての生をないがしろにしているという外国人からの指摘。
それに関して「じゃあ、あなたの国の個人主義は社会をうまくまわしているのか」
と言えば、そういうわけでもないだろうから、
それは外国からの一つの見方だとも思うが、
それでも、日本人が社会的な役割に徹しすぎているのはその通りで、
個人の生をどこかに置き忘れてきたような大人は、あちこちにいる。
明治期に、日本人に合う形の「個人主義」を考え続けた夏目漱石の問いは、
平成の終わりになっても、まだ、答えがでていない。

高校生が、かばんにジャラジャラ、なんか、いっぱい付けて下校している。
キーホルダーとかぬいぐるみとか缶バッヂとか。
それがなんのキーホルダーで誰の缶バッヂかはわからないけど、
好きなものがたくさんあるってことは、よくわかる。
高校生には、まだ好きなものがたくさんあって、
なるべく、好きなことばかりしていたいと彼らは思って生きているが、
これから大人になって、
生活のためにやらなければいけないことが増えてくると、
自分が好きだったものも、何かに夢中だった自分も、
すっかり忘れてしまったりする。
なにかを好きってことすら思い出せなくなって、
「あれ、好きってなんだっけ?」と思うこともある。

最近は、「オタク」も市民権を得てきて、
大人になっても、人に理解されない趣味を持ち続けてもいいことになっているが、
この国の「社会的であれ」という圧力は、他の国よりは強い。
社会の役割を大事にしようとする日本人の性質が、
日本の社会を安全で利用しやすいシステムにしているのは確かだが、
その役割は、誰かに取って代わられるからこそ、役割なのだ。
役割には、「掛け替えがある」。
自分が抜ければ自分以外の誰かがやってくれる役割のために、
死ぬまで働いたり、自分を死に追いやるのは、本当に馬鹿げている。
「シャツを着た以上はシャツを着た人間として振る舞うが、
  シャツと皮膚とは異なるものだ」
そう、フランスの哲学者・モンテーニュは言っていた。
社会的役割がなくても、自分の好きなものは残る。
シャツが皮膚ではないように、
社会的役割は、自分自身ではない。
高校生は、「好きってどういう感情だったっけ?」
と、好きが消えてしまわないように、今の「好き」を大事にしてほしい。