自己像がハウる

 

小学生の頃、自分の顔を忘れたことがあった。
あれ?と思い、どうにか思い出そうとするけど思い出せない。
「俺って、どがん顔やったっけ?」
自分の顔を忘れたのは、長い間、自分の顔を鏡で見ていなかったからで、
朝、学校へ行く前も、夜、お風呂に入る時も、
一度も鏡を見ずに日々を送っていたのだけど、
それくらい、小学生というのは、自分の顔に興味がないものだった。
自分の顔がどうなっているか、周りの人にどう見られているか、
そんなことに関心がない。
あの頃、僕は、ナルシシズムから一番遠いところにいた。

大学生になって、自分の顔がどうで、他人にどう見られるか気にするようになると、
人が多いところが、苦手になった。
都会にいて、人が多ければ多いほど、人の中に、自分を感じてしまう。
街に人が多すぎてうるさいんじゃなく、
人を見ることで、その人の中に見える自分が多すぎてうるさいのだ。
このうるささは、なんなんだ・・・。
そう思っていると、作家の保坂和志が著書の中で、
「自己像がハウリングする」という言い方で、それを説明していた。
都市の中では、他人への視線がフィードバックして帰ってくることが多いので、
マイクがスピーカーに近づきすぎるとキィーン!と音を立てるように、
都市では「自己像がハウリングを起こすのだ」と。
なるほど。
人が多い都市では、人と人との距離が近すぎて、
マイクがハウリングするように、自分が抱く自己像が悲鳴をあげるのか、と。
「人は自分を映す鏡」というけれど、
自分を映す鏡が多すぎると、鏡の中の鏡の中の鏡に何人も自分が映ってしまい、
多すぎる自分に不安になるのと似ているな、と思った。

自分の顔を忘れてしまった小学生時代、
僕の周りにそんなに多くの人はいなくて、自己像がハウリングを起こすこともなかった。
名前も顔も知っている周りの人たちの目に映る自分を見て日々を生きていた僕は、
鏡を見る必要もなかった。
「自分」は周りの人の眼の中にいた。
鏡を見るようになっていた大学生、
街にはたくさんの人がいて、
その人たちの眼も僕を映す鏡だったはずだけど、
その人たちは、誰も僕を見ていなかったので、
その眼の中に「僕」はおらず、ただただキィーン、キィーンと、ハウリングしていた。
だから、鏡の中の自分を見て、確認するしかなかった。

昨日、深夜にジョギングしていて、ソフトバンクの店ガラスにペッパーが映っていた。
ペッパーは店の中にいて、ガラスに映る自分が見える位置に立っていたのだけど、
ガラスに映る自分を確認して、安心してる様子はなかった。
元気が無いのか、うなだれたように、ずっと下を向いていた。

「自分」というものをプログラミングされただけの彼は、
「自分」なんてものを鏡や他人で確認する必要がないのだろう。
単純なもんだ。
「自分」というやっかいな問題を考えなくていい。
AIは子どもと同様、ナルシシズムから一番遠いところにいるらしい。