自服

一人暮らしをしていることのつまらなさの一つに、
自分で作ったものを自分で食べなければならないということがある。
料理を作っても、結局食べるのが自分であれば、
褒められるわけでも、貶されるわけでもないので、
大して興が乗らない。
自分が作った料理においしいと言ってくれる人がいてこそ
うまく作ろうともするし、分量もちきんとはかろうとする。
お客さんが自分一人しかいない時の料理は、
醤油もみりんも、計量カップを通らずに、
どぼどぼと、直接、鍋に注がれていく。

それでも、世の中には、
自分しか食べないのにもかかわらず、きちんとおいしいものを作る人がいる。
きちんとしているなあと感心するが、同時に、変だなあとも思う。
なんだか、自分で自分の膝をくすぐっているのに笑っている人みたいで、
不思議な感じがする。

自分で自分の膝をくすぐっても、くすぐったいとは感じない。
それは、手が膝をくすぐりながらも、
「くすぐられた結果、膝はこういう感覚になりますよと」
脳が、予め予想するからだ。
脳は、手の筋肉に「運動指令」を送る際、
同時に、触覚を司る「体性感覚野」という場所にもそのコピーを送り、
運動の結果、どのような感覚が生まれるかの予測をたてていると考えられている。
他人に膝をくすぐられたらこそばゆいのは、
どうくすぐられるのかがわからないからで、
自分で膝をくすぐってもこそばゆくないのは、
どうくすぐるのか予測でき、その予測が当たるために、
「このくすぐったさは、自分の手が起こした運動によるものなんだ」
という確証が取れるからだ。

そうだとすると、自分のためにおいしく料理を作って、
自分自身でそれを食べた際も、
「このおいしさは、自分の調理法によるものなんだ」
という確証が、脳によって取れているはずだ。
この大根、味が染みてておいしいなぁ。
→だって、4時間ずっと煮込んでたからね、僕が。
この煮物、辛みが効いてておいしいなぁ。
→だって、豆板醤ちょっと入れたからね、僕が。
おいしい理由を、すべて事前に予測できるにもかかわらず、
きちんとおいしいと感じれるなんて、変な話だ。
作っている時の自分と、食べている時の自分が乖離しているのかもしれない。
自分を騙しながら生きているタイプの人たちなのだろうか。
なんだか、怖い話だ。

ただ、世間的には、
自分のためにおいしいごはんを作れる人は多分偉い人達なのだろう。
なんてったって、「自分」を「他人」と同じように扱えるのだから。
自分だからといって、ぞんざいに扱わない。
自分も他人と同じように、もてなしてあげる。
「お茶」の世界には「自服」という考え方があり、
人をもてなしたり、人においしいお茶を点てようとするのと同様に、
自分ももてなし、自分にもおいしいお茶を点てなければならない。
そのためには、自分の体が今、何を欲していて、何をおいしいと感じるのか、
感覚を自分に向けていなければならない。
自分のためにおいしい料理を作れる人は、
自分で自分のおいしいものをわかっている人。
人に褒められたり、貶されたりしなくても、
自分のために自分を気遣える人。
それに対して、人からの評価がなければ計量カップで調味料を計ることすらしない人は、
自分のからだを声を、無視して生きている人。
そんな人こそ、自分を騙しながら生きている人なのかもしれない。
それもまた、怖い話。
んー、「自分」とは、どれほどに「自分」なのだろうか。