誰が子どもに「正しさ」を教えるのか(下)

最初のページ:誰が子どもに「正しさ」を教えるのか(上)

【「建前」が消えた】
皆が、「ビー・バップ・ハイスクール」や「ろくでなしBLUES」を地で行っていた時代、
先生が生徒に対して体罰を行っていても、
生徒の親たちは、先生をあくまで、「偉い人」として扱っていたが、
竹刀を持って生徒を叩くような先生を、
生徒の親が、本当に偉い人と思っていたわけではないだろう。

それは家庭が学校に対して見せている「建前」の部分であって、
子どもたちも、それが「建前」であることくらいは、わかっていた。
子どもは、家の中で感じる親の「本音」と、
世間に対して出される「建前」の両方を知ることで、
社会の在り方のようなものを学んでいたはずで、
現在の問題は、家でも家の外でも、親が「本音」をはばかることなく出してしまうことで、
「建前」がどこにもなくなってしまったことにある。

「建前」とは「本音」を押し殺した言葉であり、
「感情」を制御する「理性」と近いところにある。
逆に、「本音」とは、「金が欲しい」や「もっと褒められたい」などの
「欲」に関する部分であって、
それを大人が「内」でも「外」でも、包み隠さず口にしていると、
それを見て育つ子どもたちが、
理性的であるよりも、欲に忠実であることが良いことだと考えてしまう。

「感情」や「欲」をコントロールするのが「理性」であり、
「暴力」や「体罰」は、「理性」でもって抑えるものなのだから、
「体罰をなくしていこう」という動きは、先生も生徒も、
「もっと理性的になろうぜ」ということなのだ。
(生徒側にもこの意識が必要なのは、部活動などで体罰を受ける生徒の中には、
それを容認してしまう生徒もけっこういるからだ)

【「建前」が言えない】
「本音」と「建前」と分けて考える際、
「建前」は、「本人が本当に心の中では思っていない表向きの言葉」と言えるわけだが、
「建前」を言うことで利することがあると思うから、人は「建前」を言うわけで、
「建前」はある意味、その人の「本音」ともいえる。
「建前」が、誰の役にも立っていなければ、それは「建前」たり得ない。

子どもの親が子どもに対し、「本音」をおおっぴらに言うようになり、
教育の中での「建前」の役割は消えかかっているのだが、
それと同時に、学校や先生側が言う「建前」も、
「建前」としての力がなくなってきている。

「他人にやさしくしろ」とか
「自分の頭で考えられる人になれ」と先生が口にする時、
「実際は、他人よりも自分に優しくしてしまうことが多々あるだろうが、
理想としては人に思いやりを持っていてほしい」
と、先生たちが心の中で思うからこそ、
その言葉は、「建前」として成立する。
口に出すことが、心の隅っこでさえ思っていないことだと、
その「建前」は、「建前」にすらならない。

社会がどんどん変わっていく中で、
先生が生徒に対して、「自分の頭で考えるような人になれ」と言う必要が出てきても、
安定的な組織の中で働く先生たちは、
本心からはそう思っていないことが多々ある。
また、「他人にやさしい人になれ」と口では言ってみても、
生徒に日々やらせていることといえば、
他人にやさしくするための練習ではなく、
個々の能力を最大化させるための教科指導だったりする。

言っている本人が思ってもいないことを言ってみたり、
言っていることとやらせていることに乖離がありすぎたりすると、
「建前」は、「建前」たり得ない。
学校側の「建前」が成立しなくなってきているのは、
先生が家庭の親同様、「本音」をさらけ出すようになったからではなく、
変動していく、子どもたちの将来がよくわからなくなったことで、
何を「正しいこと」として言えばいいのか、わからなくなったからだろう。
子どもに向けて教えるべき「正しいこと」がわからないと、
「建前」さえも言うことができない。
そして、
「何が正しいかはわからないが、わかならいからこそ、
とりあえず、自分のために勉強しなさい」
という、無言の「本音」だけが、生徒に伝わっていく。

【「俗」の中での「聖」の必要性】
私が通っていた高校の不良たちは、日本の不良よりも理性的に見えたが、
懇々と説教をする、理事長の話を真に受けていたわけではない。
理事長の口から出てくる2000年前のキリストの話など、
不良にとっては、「建前」としての「青少年のための訓話」でしかなかった。

ただ、それが「建前」だとしても、
それを語る理事長に、自分の親や先生たちとは違うなにか、
世間とは違う価値を持った人の匂いのようなものを感じるからこそ、
その「建前」としての話にも聞く価値があると感じ、
彼らは耳を傾けていたのだ。
その理事長の存在は、
以前の日本で、「子どもを教える仕事」が「聖職」と呼ばれていたことと同じように、
「人に”正しさ”を教える人は、
”世俗”とは別の価値観で生きている人がいい」
ということの一つの良い具体例でもあった。

私が通っていた高校は、その理事長個人の徳でもって、
なんとか生徒の中に道徳を植え付けようとしていたわけだが、
個人の人徳に頼らずに、キリスト教自体が、その役割を果たすことは、
時代的に、もう難しい。
(人徳に頼る方がもっと難しいという意見もあるけど)

アメリカでキリスト教が役割を果たせないのと同様に、
日本でも、仏教が、子どもに「正しい行い」を教えることはできないだろう。
では、先生が「聖職者」でなくなり、宗教が力を失い、
世間から「建前」が消えた社会で、
いったい誰が、子どもに「正しさ」を教えるのだろうか。

学校は常に社会の鏡であり、
子どもに対して、「正しさ」を教える適任者がいないということは、
社会に、信頼できるリーダーや徳のある指導者がいないということでもある。
だから、この問題は、
子どもを取り巻く世界だけで解決できる問題ではないのかもしれない。
だとしても、子どもを取り巻く人達は、考えていくしかない。
その役割を誰がどうやってやるのか。
「他国」や「過去」に転がるヒントを参考にしながら。

前のページ:誰が子どもに「正しさ」を教えるのか(中)
次のページ:子どもが落ちるちょうどいい谷底