身体言語

 

茨木のり子の詩に「汲む」という題の詩がある。
「立居振舞の美しい 発音の正確な 素敵な女の人」に
「昔言われた言葉の意味」を
「ときどき ひっそり”汲む”ことがある」と語る作品。

「意味を汲む」「想いを汲む」「流れを汲む」。
”汲む”という言葉はいくつか使われ方があるけれど、
日々の中で、なにかを汲むことはめっきり減った。
”汲む”というのは液体をすくうという意味で、
蛇口から永遠と水が出てくる日々の中では、
何かの液体を汲む行為はほとんどない。

こういった、身体感覚に基づいた言葉は、
身体感覚が薄れていくと、だんだんと使われなくなる。
「肚が据わる」とか「腑に落ちる」とか「五臓六腑に染み渡る」
などという言い方を若い人が使わないのは、
彼らにとって、「肚」や「腑」や「五臓六腑」がピンとこなくなったからだ。
「五臓六腑」に何が染み渡っても、
ピンとこない部位に関する表現はピンとこない。

そう考えていたが、書きながら、
ピンとこなくなったのは「部位」であって、
「動作」ではないのではないかと思い始めた。
”汲む”という動作が日常から消えることで、
”汲む”を使ったことばも消えていくと思っていたが、
日常から”絞る”動作や”練る”作業、”磨く”仕事がすっかり減っても、
いまだに、若者は、「的を絞ったり」「計画を練ったり」している。
身体感覚に根ざさななくなった言葉でも、
定着した表現ってのは、そう簡単に消えないのだろうか。

それでも、「勇気を振り絞る」「腕を磨く」
という表現はだんだんと若者の口からは聞かれなくなっているような気もするし、
「知恵を絞った」り、「まちを練り歩く」といった表現は、
確実に、おじいちゃんたちが使う表現になりつつある。
変化は遅くとも確実に起こっている。

”磨く”も”練る”も、同じ動作を繰り返し行うことだ。
だから、「腕を磨く」ということばには、
「上達するためには長い時間の繰り返しが必要」という前提が含まれている。
今後、”磨く”が日常から消えたら、
「腕を磨く」は「ステップアップする」かなにかに取って変わられるのだろうか。
「ステップアップする」の中に、
「上達するためには長い時間の繰り返しが必要」だという意味はないので、
それを言う人にも、聞いている人にも、社会全体にも、
「上達するするためには長い時間の繰り返しが必要」だという考えは共有されなくなる。
ことばは、人知れず、徐々にひっそりと変わっていく。
それにつられて、世の中も、知らぬ間に、徐々にひっそりと、変わっていく。