過疎

  

島根県の匹見というところを車で走っていると、
前方に複数の鳥たちが群がっているのが見えた。
近づくにつれて、車にひかれたネコかイタチに鳥が集まっているのだとわかる。
まだ、生暖かそうな動物の死骸をついばむ鳥たち。
死んだものから生きているものへ。
健全ないのちの循環。

もしこれが匹見じゃなくどこかのまちの国道なら、
役所に電話して死骸を処理してもらわなくてはならないところだ。
なにしろ、道路の真ん中。
山あいの鳥たちは、市役所員よりもはやく現場にかけつける。

匹見は、30年ほど前、初めて「過疎」という言葉が世に広まった時に、
写真入りで紹介された町で、過疎のトップランナーだという。
今や日本のどこにでもある過疎地域や限界集落は、
当然、人工物よりも自然物、人間よりも動物が多い地域で、
そういう地域では、死んでまもない動物の暖かい内臓を鳥がついばむような、
健全な生命の循環を多く目にすることができる。
日本の過疎化が進行していくと、
動物と暮らす際の知恵は消えていってしまうのだろう。

そんなことを思ったのは、ヨーロッパで行われた「羊のデモ」を見たからだ。
フランスでは一度は絶滅したオオカミが羊を襲いまくっているらしいが、
動物保護・多様性の観点から、決められた頭数しか殺せないらしい。
そのことに抗議する羊飼いたちが、羊を連れてデモ行進をしていた。

限界集落が消滅して、そこから人が消えても、
その近くで生きている動物たちが消えるわけではない。
里山が荒廃すると、イノシシやサルがまちに降りてくるように、
過疎地に人がいなくなったら、人と動物の境界線がまちまで下がるだけだ。

匹見のような山あいの人たちは、動物と関わる知恵を持っていたが、
道に動物が死んでいたらまず役所に電話しようとするまちの人たちは、
山から降りてきた動物とうまく関わっていけるだろうか。
まちで動物とは、ペットのことだ。
ペットは死んでも、鳥についばまれることはなく、
動物霊園という「人間社会」の中でいのちを完結させる。
それは、もはや動物というより人間に近い。

人間は人間社会に関する知恵ばかり増やしている。
過疎化の問題は、人間の数が減るという人間社会の問題でもあるが、
人間が動物や自然との「緩衝地帯」を失うという生き物の問題でもあるのだ。