鳩のフン

大学生の頃、代官山のある服屋さんの店先が鳩のフンまみれになっていて、
もしここが代官山じゃなければ
こんなに汚く感じなかっただろうなと思ったことがあった。
郊外の砂利道にも田舎の農道にも鳩のフンは落ちていて
どこに落ちていようがフンはフンなんだけど
落ちた場所がきれいであればあるほど、
鳩のフンは汚く見える。

それはトイレにおいても同じで、
汚いトイレってのはどこにでもあるものだが、
その汚さは、もともとのトイレがきれいであればあるほど際立つ。
野原でうんこしたことのある人ならわかるだろうが
野原でうんこしてみて、汚いと思うことはない。
隣に小川が流れているような場所ならなおさら。
鳩がフンで代官山の服屋の店先を汚したように、
なにかを汚すためには、汚すだけの元々のきれいさがなくてはならない。
野原は別にきれいでも汚くもない。
野原を汚すほどのうんこをするのは容易ではない。

それは逆に、代官山という街が、
鳩のフンを汚くみせる街だということでもある。
フンがもともと汚いのではなく、
街がフンを汚く見せる。
いなかの農道に落ちている鳩のフンは
代官山の服屋のガラスに付いているフンほど汚くは見えない。
なにかを汚いもの、嫌なものに思わせるためには、
周りをきれいにすればいい。
必要以上に人は、汚く見えるものを毛嫌いするようになる。

店先をフンで汚された代官山の服屋に入った僕は、
金のかかった内装と、お客さんたちのハイセンスな服装に腰が引けた。
そして、自分のスニーカーに視線を落とすと、そのみすぼらしさと汚さに悲しくなった。
ふんっ。
俺が鳩のフンみたいだってか。
人にみすぼらさしさを感じさせるためには、
なにも言わずとも、
ただ、周りをきれいにすればいい。
それだけで、フンは勝手に気づくのだ。
ここは自分のいる場所ではないと。

でも、フンは知っている。
フン自身がみすぼらしんじゃない、
街がフンをみすぼらしく見せているだけなのだと。
野原に帰れば、フンは、そんなにみすぼらしいもんじゃないんだと。