10/10 相対的貧困

ビッグイシューというホームレスの人が売っている雑誌がある。
今号は、知花くららという人が表紙で、
記事の一つが「貧困バッシング」を扱っていた。
NHKの番組で貧困特集があったらしく、
そこに出演した高校生(母子家庭)の部屋にアニメグッズが
あったり、映画を見に行っている疑惑がでたことで、
本当に「貧困」なのかというバッシングがおきたという。
記事には、現代でいう貧困問題というのは、
食うや食わずの「絶対的貧困」ではなく、
「相対的貧困」なのだとあった。
現在、六人に一人がこの「相対的貧困」に当たるという。

食べ物や住む家がない人が「貧困」なのではなく、
周りと比較して「貧困」な人が一定数いるという考え方。
ふむ。「相対的貧困」。
相対的な貧困と聞いてすぐに思い浮かぶ話がある。
自分が小学生の時の縦笛の話。

小学生になると縦笛を買うのだが、
笛には黒と白の二種類があり、値段もほとんど違わないので、
たいていの家は、高い方(黒)を買う。
ただ、何故かうちは、安い方(白)を買わされたために、
笛の時間の度に、嫌な思いをする。
音楽の時間だけでも恥ずかしいのに、
定期的に全校合奏という全学年全員で笛を吹くイベントがあり、
全校が黒一色に染まる中で、
ぽつりぽつりといる白は否が応にも目立った。
(しかもそのうち二人は、自分のきょうだい・・・)
目に見える「相対的貧困」。

笛に限らず、裁縫箱も絵の具も空手の帯も、
値段に差があるものはたいてい低い方を買い与えられた僕は、
相対的貧困を目に見える形で示され、
毎度毎度、悲しい思いをした。
ただ、この話は今ではネタでしかなく、悲壮感は一ミリもない。
これは私見だが(というかここに書いてあることはほぼ私見だが)、
貧困や貧乏が恥ずかしさにつながるのは、
子どもが、親や家庭環境に恥ずかしさを感じている場合だ。
親を恥ずかしい人間だと子が思っていなければ、
モノに現れる貧困は、後々大した傷としては残らない。
(というか笑いにしかならない)

「白い笛」は、僕にとって悲しい道具だったが、
マイノリティの気持ちを理解する道具でもあった。
「白」は嫌だったが、
「白」側の気持ちがわかっただけましだと思う。

中学の時、東京から転向してきた子がいて、
佐賀弁がしゃべれないことで、
明らかに輪に入るのが遅れていた。
それを見てマイノリティの悲しさを思ったが、同時に
佐賀の子が東京に行けば、同じことが起こることも感じた。
人は環境次第で「黒」側にも「白」側にも立つ。
佐賀では佐賀弁で話す人間は「黒」側だが、
東京では「白」側だ。
人が話す言葉や、家庭の経済事情などの、
子どもがどうにもできないことで「白」い子どもを揶揄するのは
くだらないし、自分がたまたま「黒」側にいるからといって
「白」を見下すのは、心が貧しい証拠だ。
貧困問題は何も経済に限ったことではない。
マイノリティの気持ちが汲めない「心の貧しさ」は
「経済的貧困」と同じくらい重要な問題だ。
忘れずにおきたい。
ところで、心の貧困問題は「相対的貧困」だろうか。
それとも「絶対的貧困」だろうか。
それも、考えておきたい。