1/10 記憶の蘇るあくび

僕の体は、あくびをすると記憶が蘇るようにできている。
あくびをして、むにゃむにゃしていると、
過去に体験した匂いや味が蘇ってくることがよくある。
ああ、そういえば、保育園の廊下はこんな匂いだったな、とか
ああ、小学校の給食で、よくこんなナムル出てきてたな、とか
すっかり忘れていた記憶が、
匂いや味とともによく蘇る。

その体験自体は、
からだ主催のレクリエーションみたいなもので楽しいのだが、
その体験が”しょっちゅう”あることなのか、”たまに”あることなのか、
どっちなんだろうなあ、とたまに考える。

あくびをすると必ず記憶が蘇るわけではなく、
記憶の蘇らないあくびの方が、割合的には多いので、
記憶の蘇るあくびは、”たまに”しかしていない、といえば、していない。
だけど、記憶の蘇るあくびをしている人は、
世間にそんなに多くいないのではないか、とも思う。
当たり前すぎてみんな話していないだけかもしれないが、
目の前であくびをした人が、
「今のあくび、高校の体育倉庫の跳び箱の匂いのあくび」
なんて言うのを聞いたことはない。
そんな人がいたら、心から同意したいので、忘れたということもない。
もし、記憶の蘇るあくびを多くの人がしていないのだとしたら、
僕は、回数的に、”しょっちゅう”記憶の蘇るあくびをしていることになる。

宝くじで100万円を3回当てた人は、
他人に、「俺は”しょっちゅう”当たる」というのだろうか。

「100万円を3回」は、”しょっちゅう”のような気もするが、
買っている回数を聞かないと、
”しょっちゅう”当てているのか”たまに”当たっているだけなのかはわからない。

宝くじを”しょっちゅう”買っていたら、「100万円を3回」当ててても、
割合としては、”たまに”しか当たっていない可能性もある。

”しょっちゅう”も”たまに”も、
絶対的な回数と、世間との比較でもって、使い分けられる。
トークとして面白い話をする時には「宝くじが”しょっちゅう”当たる」だし、
金を貸してほしそうなやつに対しては「俺は”たまに”しか当たっていない」というのが賢明だ。
”しょっちゅう”と”たまに”は、意志によって変わる。

世の中の、”しょっちゅう”トラブルを起こす人と”たまに”しかトラブルを起こさない人、

”しょっちゅう”怒られる人と”あまり”怒られない人の間には、
実は、あまり差がないってことも、あるのかもしれない。
多いと思わせたいか、多くないと思わせたいかの違いだ。
あくびの話も同じなのかもしれない。
「僕は、記憶が蘇るあくびを、たまに、しょっちゅう、
したり、しなかったり」していると言っておこう。