1/15 かけがえのあるものないもの

「公」と「私」という分け方がある。
「パブリック」と「プライベート」。
これに似たような言葉で「官」と「民」ってのがあり、
これは「公」と「私」に対応しているようで、対応していない。
「官」は、まちの役場や省庁などの行政のことをいい、
「民」は、民間企業や地域社会のことをいう。
地域コミュニティがなくなっていく中で、
それまで地域コミュニティが担っていた役割をすべて「官」に任せるようになり、
日本の「公」はすべて「官」の仕事のようになってしまった。
別に、自分の家の前の掃き掃除のついでに
公道や公園を掃除してもいいはずなのに、
公園の管轄は、「役場」だと思い、何かあると行政に電話してしまう。
「公」の仕事を「官」に押し付けずに、
自分たちで引き受けなければいけない。
そう、大学の先生は言っていた。

「公」と「私」に対応する言葉の一つに、
「かけがえのあるもの」と「かけがえのないもの」がある。
「かけがえのない」という言葉が、
「”掛け替え”ることができない」だと初めて知った時は驚いたが、
世の中には、「かけがえのあるもの」と「かけがえのないもの」がある。
家族や恋人のような存在は、”掛け替え”がない。
親と瓜二つのクローンを、親の記憶をインストールされた状態で連れてこられても、
親としては見れない。
親としての役割や機能を果たしても、親にはなれない。
役割や機能をこなせばいいというわけではない。
そういう存在は、”掛け替え”がない。

それに対し、社会や会社で求められているのは、役割や機能の方だ。
大切なのは、「営業部の部長」という肩書であって、個人の個性ではない。
会社は、人が変わっても役職がある限り上手く回るからこそ、
安定して存在することができる。
名刺には、真ん中に大きく「肩書」を書いて、
その下に小さく「名前」を書けばいい。
そう、養老先生は言っていた。
どうせ、みんな、肩書しか見ていない。
肩書が例え平社員であっても総理大臣であっても、
この国では、”掛け替え”がきく。
それが組織の安定性であり、社会の安定性につながっている。

「かけがえのないもの」と「かけがえのあるもの」。
両方がうまくバランスを取らないと世の中は上手く回らないが、
「公」の中での自分は、”掛け替え”があり、
「私」の中の自分は、”掛け替え”がない。
これは、前提だ。
教育の話においても、それは、前提。
その点で、『子どもの「個性」を変に強調する教育』は、

社会は「個性」ではなく「役割」や「機能」で人を見るという、
「公」の前提を忘れているし、
『加熱しているお受験戦争』は、
どんなに子どもに「機能」を足していっても、
理想の子どもにはならない(替えがきかない)という前提を忘れている。
”自分の”子どもは、”掛け替え”のないものであるが、
社会に出れば”掛け替え”のあるものになる。
昔の人は、それを分かっていたから、
「先生の言うことは聞け」「世間に迷惑をかけるな」
と、「社会」のものさしに合わせることを、子どもに教えたのだろう。

今も昔も、子どもはスポーツ選手や歌手に憧れるが、
それは、テレビの中の彼らが、”掛け替え”のきく社会の中で、
”掛け替え”のきかない人として、みんなに認められているからだろうと思う。