12/2 がまんだがまんだうんちっち

いつ頃か、大学生がトイレの中でご飯を食べているという話を聞いて、
そんなところで臭い飯を食べるくらいなら、食べないほうがましじゃないか
と思ったことを思い出した。
一人でご飯を食べているところを見られて、友だちがいないと思われたらどうしよう。
そんな気持ちは一ミリも理解することはできないが、
トイレの個室にこもりたいという気持ちは、少し理解できる。
なにせ、小・中・高と、男はなかなか、簡単にトイレの個室に入ることができなかった。
学校で大便をすることが「禁忌」に近かった学校生活を経て、
ようやく他人のトイレに誰も構わなくなった大学時代、
トイレの個室にこもりたい気持ちは、わからないでもない。

この国の男子は、なぜか学校で「大」をすることをとても恐れている。
(もしかしたら女子も同じかもしれないが、
 そこはトイレの構造的違いということで、以下、男子に限定)
誰しも、学校で「大」をしたいはずなのに、お互いが監視しあい、誰も「大」をしようとしない。
こっそり個室に入ると、密告するやつまでいる始末。
「さっき、あいつ、ウンコしてたよ」。
男子が学校で大便できない、この問題は、最近まで、
人の目を異様に気にする現代の若者の問題だと思っていたが、
田中小実昌の小説に、子どもの頃の話として、
小学校では「大」ができなかったという話が描かれていたことを知った。
コミさん(田中さん)は、1925年生まれなので、
1930年代にはもう、男子が学校で個室のトイレに入ることは”ナシ”だったのだ。
「ぼくたち男生徒は、ぜったい、学校ではウンコをしなかった。
 学校で大便所に入るのを見られるのが恥ずかしいとか、
 あるいは、たんにとんでもないことを、みたいなのもとおりこして、
 ぼくたちは、学校ではウンコをしなかった。
 だから、ウンコをがまんして家に帰る途中、つい、しくじったりもした」
(「ぽろぽろ」田中小実昌)

コミさんは、戦争中、兵隊のくせに、
兵隊が何よりも大事にする小銃弾を「重いから」という理由で捨てるような、
終戦を知らせる玉音放送を聞いても、感動も落胆も安堵もしないような、
そんな、神経の太い人だ。
そんなコミさんですら、学校ではウンコをしなかった。
それほど、世間からの、ウンコへの圧力は凄まじいものがある。
多分それは、学校が「公」の領域で、ウンコが「私」の領域にあるからだ。
日本人は公私混同しない。
「公」の場所では、「公」にふさわしい振る舞いをし、「私」は極力抑えるように教育されている。
「私」の最たるものであるウンコは、「公(学校)」に持ち込んでいいものではない。
以前の日本と比べれば、公意識が薄れたとも言われるが、
まだまだ、公私での振る舞い方を、私たちはしっかりと使いわけている。
学校という「公」の場では、ウンコという「私」は控えなければいけない。
その強い社会的圧力が、小学生だったコミさんを、たまに「しくじらせた」のだ。

小学生の時読んだ本で「がまんだがまんだうんちっち」という絵本があった。
小学生の主人公が、学校でウンコができなかったために、
帰り道、色々な場所でウンコをしようと試みるが、どこのトイレも使えず、
とうとう我慢できずに原っぱで野糞をしてしまったので、
家に帰ってお母さんと一緒にそれを拾いにいくというハートウォーミングストーリーだ。
主人公は、小学生時代のコミさんと同じく、帰り道に「しくじってしまった」わけだが、
まだこの絵本の時代には、帰り道に原っぱがあった。
「公」の場所で控えなければいけないウンコは、
通常、家に着くまで我慢しなければいけないが、どうしても我慢できない時は、
原っぱというアジール(避難所)、野ぐそという超法規的措置があった。
「公」と「私」の間には、そういったエスケープゾーンがあったのだ。
ただ、いまや原っぱや空き地はどんどん減り、帰り道に、寄るべき原っぱがない。
「公」と「私」の間にあるべきアジール(避難所)がなく、
野ぐそという奥の手が使えない。
避難所を失った子ども達は、余計にプレッシャーを感じ、
無駄に学校で便意をもよおしているのかもしれない。
解決方法としては、原っぱを増やしていくか、
男子トイレも女子トイレ同様、個室オンリーにするかしかない。
どちらでもいいと思うが、男子トイレを個室オンリーにした場合は、
子どもたちが、個室の中でご飯を食べていないか、常に、注意することが、必要だ。