6/1 看板かけ直し

友人に「君には情がない」と言われた。
心外だ。心から心外だと感じた。
僕は都会と田舎では田舎側に立ってきたつもりだし、
これから生まれる新しいものよりも、
失われ忘れ去られるものに想いを馳せてきたつもりだ。
山本周五郎みたいな、弱い人間を描く小説を読んできたし、
田中小実昌みたいな、光の当たらない人間を描くものも
ちゃんと読んできた。
もし僕が弁護士なら、
人情派弁護士のレッテルを貼られてもいいくらいだ。
(人権派ではない)
そんな僕に、情がないなんてどの口が言うのかといいたい。

友人曰く、情とは状況に流されるということなのだという。
その場の雰囲気、狭い共同体の慣れあい、空気に流され、
おもねってしまうことだと。
だが、僕は、流されない。
自分の(時に自分の中でしか成り立ってない)論理でもって
判断を下す。そこに情はないという。
分析自体は当たっているだけに、小さなぐうの音しか出ない。
しかし、これまで「人情派」を自称して生きてきただけに、
すぐに「はいそうですか」とは言えない。
今日から「理知派」に看板かけ直しますとはいえない。
やっぱり納得がいかない。

そんな折、本屋で立ち読みしていると、
情に関する文章を発見した。
作家の池澤夏樹がこれまた作家の須賀敦子を評して、
情の深い人だったと書いていた。
僕の解釈で書くと、「須賀敦子は情が深いばかりに、
周りの人物をキャラクタライズできなかった。
実際に触れ合った人々を脚色して物語化するには、
あまりにも彼女には人々に情がありすぎた。彼女は、
情があったばかりに中々フィクションに踏み出せなかった」

僕は、ドキッとした。
僕は根っからのフィクション側の人間だからだ。
嘘を語ることで本当が見えると思っている。
作り話で人が浮かばれるなら、大いに結構だと思っている。
フィクションに何の抵抗もない。
物語に何の抵抗もない。
そんな僕には情がないのだと、一刀両断された気分だった。
ははっ。友人よ、君が正しかったようだ。
今日から「人情派」の看板は下ろすことにするよ。
けど、新しい看板は「ドライ派」か「クール派」でいいかな?
まだ、自分が「理知派」だとは認めきれないよ。