おせっかい屋

おせっかいが通じない世の中だ。
おせっかいが危険にしか思えない世の中ともいえる。
「危うきに近寄らず」
知らない人は無視するに限るというのが、危ない社会での役に立つ教えなのだろう。

子どもの遊び場で、一人で遊んでいる女の子に話しかけたら、保護者がすっ飛んできて、睨みながら子どもを連れて行かれたこともある。
お金の操作がわからずに困っているおばあちゃんに操作を教えようと手を取ったら、「ひぃ」と言われて、手を払いのけられたこともある。

おせっかいが通じない世の中でおせっかいをしようとすると、おせっかいな人は嫌な思いをするだけかもしれない。
ただ、僕のおせっかいが通じない理由は、世の中がおせっかいを許容しないからという理由に加えて、僕が若すぎるという理由もある。
おせっかいとは、本来、おじさんやおばさんがするものなのだ。
何の欲もなくなったおじさん・おばさんが、余分な、親切な行為をするから、それはおせっかいに見えるのであって、それを、まだ承認欲求むき出しの20代・30代がやっても、怪しくしか映らない。

子どもに近づく20代は小児性愛者かもしれないし、お年寄りに近づく30代はオレオレ詐欺師かもしれない。

若い人が「いいこと」をしていると、その裏になんらかの思想があるのではないかと、人は疑う。
危険な思想?
もしくは危険な宗教?

若い人が純粋におせっかいをしているはずがない。
そう、若い人の素行を素直な目で見れないのは、現代の日本人の目が曇ってしまったという理由もあるかもしれないが、「若い」ということはいつの時代もそういうことだからでもある。
自分を証明したい若い人たちは、「なにかのため」におせっかいをし、おせっかいをすることで、自分の中の足りない何かを埋め合わせるものなのだ。

それに対して、おじさん・おばさんがやるおせっかいは、純粋である。
自己顕示欲も承認欲求も枯れた彼らは、「純粋なおせっかい」ができるのだ。
彼らは、安心・安全なおせっかい屋である。

先日、夜の街を、拍子木を鳴らしながら「火の用心」を注意喚起してまわっているおじさんがいた・
そのおじさんはあまりにも老齢で、腰がチュロスくらい曲がっていたので、おじさんが引退した後は、僕が代わりに、街の「火の用心」を説いて回ろうかと思ったのだったが、すぐにその考えは立ち消えた。
なにせ、僕は、おせっかい屋としては若すぎるのだ。
誰にも頼まれないのに拍子木を鳴らして街を歩けるのは「成熟したおじさん」以降であり、若い人がそんなことをやってると、なにか新興宗教かネズミ講の匂いがする。

横断歩道で旗を持って子どもの安全を守っている仕事も、「いのちの電話」で人の話を聞くような仕事も、成熟したおじさん・おばさんにしかできない。
若さはいつでも称賛されるが、そういう意味で、歳を取らないとできない役割というのは、数多く在る。

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