むきだし

「裸子植物は胚珠が子房に包まれておらず、胚珠がむきだしになっている」
という表現は、中学生心に訴えるなにかがある。
それは、「裸子植物」の「裸」にビビッとくるからだろうか、それとも「むきだし」の方だろうか。

被子植物の胚珠が子房に包まれているのに対し、裸子植物が包まれておらず、むきだしだと説明される時、僕らは、その「むきだし」に傷つきやすさを連想する。
将来の種である胚珠を「むきだし」にするなんて、危なっかしい生き方。
被子植物が、「被」の通り、胚珠に子房を被せて、大事に覆って大切にしているのに対し、裸子植物の「裸」な生き方の粗野なことといったら。

現に、裸子植物の数は、地球上で減少しているらしい。
太古の昔は、地球上に溢れていた裸子植物は、被子植物との競争に破れたのかなんなのか、大幅に数を減らし、今では、地球上は被子植物の天下らしい。
やはり、「裸」でむきだしにしている生き物が、何かに覆われ、庇護されている生き物に勝てるわけがないのだ。
原人たちが裸で歩き、ホモサピエンスは服を着たように。

そこに「裸子植物」の悲しさを想う。

が、同時に、「被子植物」側である我々ヒトが、いつの日か、別の存在との競争に敗れるとしたら、その時、我々、現生人類が「むきだし」にしてしまっているもののは、おそらく、「こころ」であろう。

我々より、より、「こころ」が覆われ、庇護されている存在から、「あんなにこころをむきだししてねぇ・・」と、ヒトの悲しさを想われながら、駆逐されていく我々の未来が見えるような気もする。

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