ゲームとプレイ

銭湯でサウナに入っていると、テレビで春の高校バレーの決勝が行われていた。
新型コロナによる出場辞退校があったとも聞いていたので、高校生たちは相手校だけでなくコロナとも戦わなくてはならなず、大変だなと思いつつ眺めていた。

真剣にスポーツに取り組む高校生を見ながら、スポーツって「遊び」に入るんだっけかと考える。
彼女たちは遊びにしては真剣すぎるように見えるけど、遊びだからこそ真剣にやってるのか。
以前、タモリさんがゴルフをしていた時に、ふざけてプレイしていた芸人に対して言っていたことを思い出す。
「真面目にやれよ!仕事じゃないんだぞ!」
タモリさんらしい話だが、遊びだからこそ真面目にやる必要があるのかもしれない。

絵本作家の安野光雅さんは、遊びを「クイズ」と「パズル」に分けて説明していた。
「クイズ」は知識を問うもので、「パズル」は、問題を見ていればいつかは答えがわかるものだと。
「クイズ」は知識がなければ一生解けないもので、「知っているかどうか」だけの問題なので、遊びとしてはあまり上等ではないと、安野さんはクイズに対して批判的であり、勉強は「パズル」のようにあるべきだと言っていた。

それは言い方を変えれば、「パズル」には答え方が複数あると言うこともできる。
「クイズ」が一問一答であるのに対し、「パズル」は、正解に至るルートがいくつかある。
ジグソーパズルにしてもクロスワードパズルにしても、どこから始めなければならないという決まった手順があるわけではない。

英語や国語よりも数学が好きな子どもに「好きな理由」を聞くとよく返ってくる答えが、「答えに至る方法がいくつもあるから」というものだ。
数学が好きな子どもからすると、英語や国語は「知ってるかどうか」の勝負であるのに対し、数学は、知らなくてもとけるパズル的要素があるということなのだろう。
(自由度や曖昧さでいうと、英語や国語のほうが高いと思いますが)

遊びを「クイズ」と「パズル」に分けた安野さんに対し、
遊びを「ゲーム」と「プレイ」に分けて説明したのは、たしか、社会学者のゴフマンだった(ような)。
「ゲーム」はすでにルールが決まっており、ゲームの最中にルールが変更されることはない(たとえばスポーツ)。
それに対し、プレイ(たとえば「ごっこ遊び」)は途中でルールを変えてもよいし、ルールを変えることが楽しさにつながる。
先程の、「パズル」にしても「クイズ」にしても、決められた設定の中で出された問いに答えるという点では、それらは「ゲーム」に入る。

それに対し、社会学者のガーフィンケルは、「ゲーム」と実社会がまったく違うことを指摘した。
実際の社会では、「ゲーム」のようにルールが固定されていないし、「ゲーム」のルールがわからない状態でゲームに参加しなくてはならない。
また、置かれた環境のノーマルな様式を維持するためになにが必要なのかを考えなくてはならない。
つまり、実社会では、ただただんに「ゲーム」のプレーヤーになればいいのではなく、「ゲーム」はなにの上に成り立っているのかに意識を向ける必要がある。

それは、たとえば、スポーツチームが経営難により消滅したことで、そこに所属するアスリートがはじめて、自分がプレイし続けるためには、土台としての資金やファンが必要であったことを認識したり、経済発展ゲームをしている各国が、このままゲームを続けていけば、ゲームをやる上での基礎であるエネルギー源が枯渇してしまうことに気づいたりするということである。
ただの一プレーヤーである時は、上手にプレイすることだけが求められ、なにが善いことで・なにが悪いことか、なにが土台にあって・どういう基礎の上にゲームが成り立っているを考える必要がない。
つまり、「善悪の彼岸」に立っている。
しかし、実社会では、善悪について考える必要があり、ただ経済が発展すること、ただ高層ビルが立ち並ぶことを疑問視する視点が必要になる。

そういう意味で、「ゲーム」の典型例であるスポーツは、「実社会」とも「プレイ」とも異なる営みだというとを考えておいたほうがいい。
スポーツを通して学ぶことは多く、成長する機会も多々あるが、「ゲーム」であるスポーツだけをもって、子どもへの教育が事足りるわけではない。
大きくなるためには、ルールを自分たちで作る「プレイ」もやらなければいけないし、学生時代が終われば、「ゲーム」とは違う「実社会」で生きていくことも念頭に置かなければならない。
スポーツは皆が熱狂できるだけに、注目を集めやすいが、スポーツが「ゲーム」でしかないことを、大人はゆめゆめ忘れてはならない。

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