「ちょっと、禅寺にでも行きたいな」と思う。
市井に生きていると、
世間とは違う価値観で動いている世界に行きたくなる。
どこかに、いい禅寺ないかな。
そう、電話で友人に話すと、
「それ、ダウトだよ」と彼女は言う。
「何がダウトなの」と聞くと、
「嘘言ってるね」と言う。
禅寺ってのは、本当に何かに行き詰った人が行くところで、
(あたなのように)教養を積みに行くようなとこではないし、
知的なアクセサリーを増やすために行くようなところではないと、言う。
「別に、教養積みにいくわけじゃないし、
僕だって、ちょっとくらい行き詰まってますよ」
そう反論しても、
いや、そんな程度の行き詰まりでは禅寺に行く必要はないし、
そもそも、行き詰った時に禅寺みたいな権威あるものにすがろうとする根性がよくない。
座禅や瞑想なんて家でもどこでもできるんだから、
禅寺なんか行く必要はまったくない、と手厳しい。
ただ、半ば、当たっているようで、反論が出てこない。
「日々ロック」という、青春ロックバンド・マンガがある。
そのマンガの中で、小さなライブハウスをやっている店長が、
若いバンドマンたちにこう言って諭す。
「ロックンロールやってる奴は2種類に分けられる。
ロックンロールをファッションのように着こなすクソ野郎と
ロックンロールで闘うやつだ」
多分この言い方はロックに限らず、どの分野に関しても言えて、
禅で言うなら
「禅をやっている人は二種類に分けられる。
禅をファッションのように着こなすクソ野郎と、
禅で戦うやつだ」
ということになるのだろう。
確かにそう言われると、
禅をファッションとして着こなしている奴は、世界中に山ほどいるし、
自分もその一員のような気がしないでもない。
「それ、ファッションでやってんじゃないの?」
そう自分の胸に問いかけて、
その節がまったくなければ
禅寺に行けばいいし、
少しでも、禅をファッションとして着こなそうとしてるなと思えば、
それは「嘘」だから、禅寺に行ってもしょうがない。
禅も禅寺も、それ自体は「嘘」じゃないけど、
自分の心の中に「嘘」があれば、
禅寺だろうがどこだろうが、
得るものなんか、たいしてない。
心に「嘘」があれば、どこに行っても意味がないし、
心に「嘘」がなければ、家の中でも部屋の中でも、修行はできる。
問題は、場所ではなく、
自分自身に「嘘」があるかどうかなのだ。
(ま、ティック・ナット・ハン禅師は、
「それでも、修行するなら、寺の中が一番しやすいよね」って言ってたけどね)
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