今年の台風19号は歴史的な台風だった。
事前に鉄道会社や航空会社がすべてサービスを停止し、
コンビニやスーパー、ドラッグストアも多くが店を閉めた。
まだ災害報道は続いており、死者や行方不明者も多いようだが、
事前に社会全体が十全に気をつけて予防を張ったことで、
台風の大きさに比べて、各地で被害を抑えられたことは、
人為的な努力で防げる命が多くあることを、改めて示唆している。
多くの施設やサービスが事前に店を閉めたり、サービスを停止したりする中、
結婚式場も例に漏れず、多くがキャンセルや延期の決定をしたようだった。
結婚式は長い準備と多くのお金、多くの人が関わっているので、
あまりキャンセルや延期がきかないらしいのだが、
それでも延期するほど、今回の台風は、社会が慎重になっていた。
僕も当事者の一人として、八幡宮での神前式について宮司さんと話し合い、
結果的にキャンセルすることを決めたのだが、
その時の話の中で、宮司さんは、
八幡宮の方から「キャンセルしてください」と申し出ることはないと言われた。
宮司さんの言うことにゃ、
宮司とはそこに御座します神様を守るのが仕事であり、
地震があっても、台風が来ても、水害に見舞われても、
「我々は、いつも、ここにいるのです」とのことだった。
だから、参拝者が来るならそれを受け入れるし、
式を挙げたい新郎新婦がいるなら、それを、いつでも寿ぐとのこと。
だから歴史的な災害が予想されるような事態に陥っても、
八幡宮に向かう鉄道がすべて止まることが宣言されていても、
高潮の影響で八幡宮に向かう道路が封鎖される可能性が示唆されていても、
八幡宮側から中止や延期を申し出ることはなく、
「新郎新婦がやりたいならやるし、やりたくないならやらないのです」とのことで、
「しかし、私達は、万が一なにかあったとしても、責任はとらないのです」とのことだった。
決定権は式を挙げる二人に預けるのだから、
式中に飛来物で頭を打っても、倒木で下敷きになっても、参列者の車が水没しても、
一切責任を取らないというのは、世間では認められない。
サービスを行う側には、安全を確保する責任があり、
安全を確保できない際には、
サービス自体の中止や変更を申し出るべきだと世間では考えられる。
特に、サービスの受給者と供給者が明確に別れ、
受給者からのクレームが容易に言えるようになって以後は、
サービス提供側の「リスク意識」が強く望まれるようになった。
しかし、八幡宮は営利企業でもサービス業でもない。
分類的には、宗教法人かなにかだろうが、それは社会的な名札であって、
信仰のための施設は、世間のサービス業のように消費者を相手にした商売ではない。
宗教は、神様を相手にしている。
「あなたがやりたいならやります。でも責任は取りません。
お金は取ります。しかし安全は確保しません」
そういった論理は、一見めちゃくちゃに聞こえるが、
新郎新婦ではなく神様を相手にしているのだから、
はじめからめちゃくちゃなのは当たり前だ。
神様を相手に、クレームもリスク管理もない。
それは、人間世界だけで通用する論理なのだ。
先進国の人々が好んで資本主義を推進し、
教育や医療や地域社会にもマーケットの論理を入れるようになると、
神様相手の仕事は理解されなくなる。
マーケットは、論理的でない考え方も、合理的でない行動も認めないが、
神様は、論理的でも合理的でも、時に、倫理的でもない。
そんなめちゃくちゃな神様に触れる機会が人の生活には時折あり、
結婚式などは、神様を前に祝ったり、言祝いだり、祈願したりする典型的な場面で、
そこでは、人間社会で通じる論理と神様と人間の橋渡しをしている人達との論理がぶつかったりもする。
宮司さんは、
「台風が来ても、悪人が来ても、私達は、ここにいるのです。
来るものは拒まないので、こちらからキャンセルなどとは申し上げられないのです」
と言う。
その考えは現代社会では理解されにくくなっているが、
結婚式は本来神様に祝福してもらう場なので、
宮司さんの言うことはもっともだと思い、
こちらからキャンセルを申し出た。
災害のリスクを八幡宮ではなく新郎新婦側が負う以上、
参列者に無理は言えない。
今回は中止する。
翌日、予報通り、超大型の台風はやって来て、
式どころではなかったと思わされるくらい
暴れに暴れて台風は去っていった。
道路の交通規制が解除された後、
キャンセルの払い戻し金を受け取るために八幡宮に向かい、
社務所で、昨日お話した宮司さんを呼んでもらうよう頼むと、
メガネをかけた社務所の中年女性が短くつぶやいた。
「宮司は現在出張中です」
台風がきても悪人が来ても、宮司はいつもここにいるのですって言ったのに!
と、一瞬、心のツッコミがその女性の眼の前まで出かかったが、
それは言葉の尻を捕まえただけのこと。
宮司さんは交代しながら社を守るのだろう。
明日もあさってもその後も。
リスクを取るということもなく。
神様の方だけを向いて、いろんなものに守られながら。