器量

ルッキズム(外見至上主義)という言葉を目にする機会が多くなった。
ルッキズムとは、外見によって人を差別したり不当な扱いをすることをいい、近年のミスコンの減少にも影響を与えているという。

「人を見かけで判断してはいけません」というのは子どもの頃から教わることで、それは、裏を返せば、人(子ども)は、人を見た目で判断しがちということでもある。
海外の国々がどういう「見た目」の歴史を進んできたかは知らないが、この国は結構、「見た目」を重視していきた歴史がある。
日本文化が視覚を重視する文化であることはよく言われる話だし、人間関係や場を重視することから、建前としての見た目を必要以上に気にするのも確かである。
(見た目のためだけに、就職活動中の気味悪い黒のスーツを着ている若者たちには同情しかない)

人を見た目で判断してはいけないという建前があればあるほど、人の本性は見た目に出るという論説も強くなるもので、「人は見た目が10割」という新書が本屋に並んでいたのは、いつの話だったか。
日本では体と心を一体と考える歴史が長かったので、「人は40過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言われるように、外見(顔)に中身(性格)が出ると考える人は多い。
「人相見」や「人相占い」という言葉は、内面は外見に出ることを信じていた証拠だが、これは日本に限らず、古代ギリシャや中国でも盛んだったことを考えると、普通に生きていれば人は、内面が外見に現れると考えるもので、それに待ったをかけるのが、近代的、理性的な道徳観念ということなのだろう。

ルッキズムに関して気になることの一つは、「イケメン」に対応する女性の外見を褒める言葉が今の日本にないことである。
80年代、「マブい女」という流行り言葉で褒められていた時代に比べ、今は「かわいい」「美人」のようなスタンダードな褒め言葉でしか女性の容姿を褒めることがない。
「マブい」が衰退し、「イケメン」が台頭した90年代以降、男は「イケメン」という時代流行的な言葉で褒められてきたが、女は特にこれといった褒めワードがないままだった。
これは、男が女を見定める時代から、女が男を見定める時代に変わったということなのだろうか。

今から大きく昔に遡ると、明治・大正時代、容姿の良い女性は、「器量が良い」と褒められた。
その反対に「器量が悪い」といえば、容姿が悪いということだが、令和の時代にこの言葉を使っている人はほぼいない。

歌人の長田弘は、この「器量」についてエッセイで書いていて、「器量」というのは「器」と「量」のことであり、今の言葉でいえば、「ハード」と「ソフト」を指すという。
「器量が良い」というのは、なにも外見がいいということに限らず、というか、おそらくもともとは、「ものの役に立つべき才能や徳」のことを指す言葉で、それが転じて、容姿のことも指すようになったのだろう。
つまり、「器量が良い」とは、「仕事ができる」ということであり、ハードである「器」と、そこに入れるべき「量」のどちらも有している状態を表していた。

現代は「ハード」と「ソフト」が明確に分かれている時代であるが、その分離が始まったのは、レコードが普及してからではないかと、長田は指摘する。
レコードプレイヤーを持っていても、「ソフト」としてのレコードがなければ、音楽は聴けない。
その流れは現在も続いており、パソコンやスマートフォンなど身の回りの機器を見まわしてみても、「ハード」と「ソフト」を作る会社は別々であり、しかも、圧倒的に「ソフト」側に力がある。
大事なのは「ソフト」であり、最高の「ソフト」を作れたものが、デジタル界の覇権を握る。
「ハード」はソフトを入れる器として、メモリーの大きさと演算能力の速さが重視されるにとどまるのだが、そうした「ソフト」の優位性は、そのまま人間にも当てはまる。

「ハード」と「ソフト」を人間に置き換えると、「ハード」は身体、「ソフト」は脳(心・頭・言葉)ということになる。
都市化が進んだ現代は脳優位の社会であり、身体は置き去りにされる。
AIの進化、バーチャル世界の進展は、いかに身体なしで人が生きていくかを模索しているようでもある。

そうしたデジタルワールドを作り出しているデジタル界隈の技術者たちの多くは、「いい体」をしているイメージがない。
「ギーク」と言われるコンピューターオタクを指す言葉がイメージさせるように、彼らは、生身の身体に気を使う人々ではない。
つまり、デジタルワールドを革新し続けているシリコンバレーのギークたちは、マッチョイズムのアメリカにありながら、マッチョとは対極の、軟弱の極みの体で、新しい世界を作り出している。
フェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグを描いた映画『ソーシャル・ネットワーク』の中で、ハーバード生でありボート部のオリンピック選手でもある、文武両道の最高到達点にいるようなマッチョな兄弟を、ダサい服を着た、軟弱なコンピューター・オタクであるザッカーバーグは圧倒していく。
現代は、「ソフト(頭)」さえあれば、「ハード(身体)」が不要な時代であることを、あの映画(というか事実)は如実に示している。

先程、現代日本には「イケメン」だけが残り、女性の容姿をほめる言葉がないと書いたが、「イケメン」というのは外見のみを褒める言葉であり、ルッキズムそのものである。
そこには「器」だけがあり、「量」がない。
中身の伴わない人間を褒める言葉だけあっても仕方なく、さらにいえば、「器」という言葉は本来、容姿としての「ハード」のことだけでなく、人間性としての「ハード」のことをも指していた。
今、この国に必要な言葉は、「器」と「量」を兼ね備えた男や女を指す言葉ではないだろうか。
つまりは、「いい男」や「いい女」を表現する言葉であり、それが、「男」や「女」に限らず、「魅力的な人間全般」を指す言葉なら、なお、時代に即しているのだろう。
そういう新しい言葉がでてこないと、本当の意味で、令和が始まったとはいえないのかもしれない。
「イケメン(イケてるメンズ)という恥ずかしい表現は、はやく淘汰されてほしい。

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