【先生が生徒を殴る動画が物議を醸している】
日本の高校で教師が生徒を殴る動画が公開され、物議を醸している。
どんなに理由があっても生徒に対して暴力をふるってはいけないという意見の一方で、
先生を挑発した生徒側も処罰されるべきという意見も見られる。
今のところ、ネット上の意見は、生徒側にも非があるという方に傾いているようだが、
どんなに生徒が挑発したとしても、
先生が手をあげるということ自体が信じられない文化で育った外国人などから見れば、
日本の教育は、抑圧的で非理性的なものに映るのだろう。
先生が生徒を殴らない国の人たちにとって、
「先生を挑発した生徒も悪い」と日本人が考えること自体は理解できたとしても、
「だから、先生は殴ってもいい」という考えには至らない。
先生が生徒を殴らない教育の下で育った人たちが日本の世論を知った時に感じる異常さは、
日本人がインドの教育現場に立つ先生たちの抑圧的な態度に感じる異様さと同じだろう。
インドでは、先生がcane(杖)を持って教室内をうろつき、
しつけと称して、太ももや手のひらを杖で叩くことが日常化しているが、
現在の日本人からすると、インドの暴力的なしつけは、到底容認できるものではない。
しかし、日本でも、つい数十年前まで、竹刀を片手に教えている先生はちらほらいた。
ちょっと前まで教室に竹刀を持った先生がいても変じゃなかったのに、
今、竹刀を持って授業を行っている先生がいたら、問題にしかならない。
飲酒運転に関する世論や、セクハラに関する世論でも感じることだが、
なにかに対する一般的な感覚というのは、
数十年あれば、一気に変わってしまうものなのだ。
数十年で、「普通」だと思う感覚が一気に変わってしまうということは、
皆が「普通」だと思うラインが定まっておらず、常に動いているということ。
「どういう状況なら生徒に手を上げても許されるのか」というラインが、
上下にぐらぐら動いている状況で下す「OK」「NG」の判斷は、
ケース・バイ・ケースということになるのかもしれない。
【先生がえらくなくなった時代】
先生が竹刀を持って授業を行っていた
「ビー・バップ・ハイスクール」や「ろくでなしBLUES」時代、
先生たちは竹刀で生徒たちを叩いていたかもしれないが、
生徒たちは生徒たちで、学校の廊下を単車で走ったり、
ナックルダスターをポケットに忍ばせるなどして、
真っ向から、先生たちに反抗していた。
そんな生徒たちを抑えるために、先生たちは竹刀を持っていたりもしたのだろうが、
社会や生徒の親も、竹刀を持って授業をする先生のことを、
(実態はどうあれ)「いちおう、”偉い人”」として扱っていた。
先生は「偉い」。
そんな先生に反抗する生徒たちは、「不良」。
そういう「建前」を「建前」として、家庭や地域社会が持っていたからこそ、
竹刀を持った先生の、抑圧的な態度は、ある程度、容認されていた。
現在、先生に竹刀を持つ権限は社会が許さないが、
それは家庭や社会が、先生を「偉い人」として扱わなくなったことが、
原因の一つとしてあげられる。
偉くなくなった先生には、竹刀を持つ権利も、
(どんな理由があっても)生徒に暴力を振るう権利も、
そもそも、生徒をしつけをする権利さえも与えられていない。
先生に与えられているのは、親が納得する範囲での指導だけで、
親の価値観が一様でなくなった社会では、
先生が一様に生徒に同じ指導をしても、
どこかの家庭からクレームが出ることがある。
”偉くなくなった先生”には、
生徒への「個別対応」と「説明責任」が常に、求められている。
【誰が「正しさ」を教えるのか】
今回、体罰動画を撮っていた高校生たちも、
学校や親が、先生ではなく自分たちを守ってくれるはずだという認識があったはずで、
もし、世間が自分たちを非難するとわかっていればこんな行動にはでなかったはずだ。
生徒は、先生を強く挑発しても先生は強い態度には出ないし、
強く出てたとしても、先生の方が非難されるのだという確信があった。
その生徒の考えが、動画を通して見え隠れしていたことで、
世間は、思いの外、先生ではなく、生徒側を非難する方に回ったのだろうが。
今回の動画問題では、
「いかなる理由があっても生徒に対する教師の暴力は許されないのか」という、
子どもに対する「体罰」や「暴力」が焦点になっていたが、
本当の問題は、「子どもに道徳を教えるのは誰なのか」という問題ではないかと思う。
子どもが間違ったことをした場合に、本気になってその間違いをただし、
子どもに善悪やものごとの価値を教えるのは、
親なのか、先生なのか、はたまた、違う立場の人なのか。
そのことを不問にしたまま、暴力の是非だけを語ってもしようがない。
暴力や体罰は(それが正当化されるべきでないとしても)間違いを正すための手段であり、
それが手段だからこそ、今回の動画で、
「身体的」ではなく「言葉」の暴力を用いて先生を挑発した生徒も、
先生同様に、非難されたのだ。
手段としての暴力や叱責に関しては、
なにが正当化されるべきで、どこからがやりすぎなのか、
皆で話し合っているうちにラインが見えてくると思うが、
その前に話し合うべきは、
誰が責任を持って、子どもに対して「人としての正しさ」「良いことと悪いこと」のような、
道徳や倫理を教えるか、なのだと思う。