10/31 会話はキャッチボールではない

先日、年長の人達と話していて、
「老舗料亭が商業主義に走りすぎている」という話になった。
「主人が他店舗展開に急がしくて店に立っていないから、
  料理にも店内にも、主人の息遣いが感じられない」
ということらしく、他の人も、ウンウン頷いている。
なんだか話が「金儲け、悪し」でまとまりそうだったので、
「でも、他店舗展開することで、それまで『主人』が担ってた
 『もてなし』を、違う形で表現してるってことも
 あるかもしれませんよ。新規客が増えたり、
 違う土地のお客さんが来ることに対応することで」
と言ったら、
「(坊や)、そういうことじゃないんだよ」
と、呆れられて、話が終わった。

会話をしていて、齟齬を感じることがある。
もしかして、僕がしゃべってることは僕が思ってることだと
みんな、思ってるんじゃないだろうか。
違うよ。
違う。
「他店舗展開することで、それまで『主人』が担ってた
 『もてなし』を違う形で表現してるってことも
 あるかもしれませんよ」
なんて、思っていない。
全然思っていない。
それは、会話をつなげるための、ただの相槌。
とりあえず言ってみただけだ。

言ってみただけ。
これが、なかなか通用しない。
だいたい、「会話はキャッチボールみたいなものだ」
なんて比喩を最初に使ったのは誰だ。
会話はキャッチボールみたいなものだけではないのに、
皆が、会話をキャッチボールだと思っているから、
取りにくいボールや思ってもいなかった変化球を投げると、
投げられた方は不快感を露わにする。
「こんなボール投げてきて、どういうつもり!?」
でも、会話って、キャッチボールみたいなものだけじゃない。
もっと、こう、何ていうか、
「キャンプファイヤー」みたいなものでもある。
キャンプファイヤーみたいに、誰かが火種を作ったら、
そこに風を送ったり、燃料をどんどん投下したりして
みんなで協力して、大きな火にすること。
みんなが手をかざして暖まれる火にすること。

暖かな焚き火にすることが目的だから、
そこに投下するのは、本当でもウソでもなんでもいいし、
誰がどの枝を入れたかなんてのはどうでもいい。
焚き火が燃え続けて、みんなで温まれれば、それでいい。
大事なのは、「火が燃え続けること」であって
「誰がどの焚き木を入れたか」じゃない。

そういうことを言うと、「盛り上がればなんでもいいの?」
とか「それって会話じゃなくて議論じゃない?」といわれる。
そうじゃない。
そうじゃなくて、僕がいいたいのは、
「みんな自分のことばっかしゃべるんだな」ということだ。
自分の好きなこと、楽しいこと、気持ちいいこと。
自分の嫌いなこと、ムカつくこと、気に食わないこと。
そんな話ばっかりしている。
恋人や親子の会話は、それでいいと思うけど、
男同士でそんなくだらない会話してどうすんだと思う。
「『お前の』話じゃなく、『それ自体』の話をしようよ」
といつも思う。

もしかしたら日本人だからそういう会話をしないのかな
とも思うけど、西洋人も一見そういう会話に慣れているように
見えるだけで、ずーっと自分の「意見」を
しゃべり続けているだけという人ばかりだ。
それだと話題が「議題的」なものだとしても、
自分の「意見」を出し合っているだけで、
恋人達が「猫派か犬派か」を話しているのとあまり変わらない。
聞いてる方にとっては、どっち派でもいい。どうでもいい。

あの、その、違う言い方をすると、
「会話の面白さって、積み木の面白さだろ」ってことだ。
相手が積んだ積み木に何かを載せてみる。
それに相手がまた載せる。
そこに、丸い球なんかを載せてみる。
別に高くしていくことが目的じゃないから、
不安定でも問題ない。
そこに、相手はまた違うものを載せようとしてくる。
そういうお互いの「積み合い」が会話の楽しみだと
思うんだけどな、といつも思う。

皆、こどもの時、テレビゲームをしすぎたのかもしれない。
遊びに、勝ち負けを入れすぎたのかもしれない。
もっとみんな積み木で遊べばよかったのに。
一緒に作り上げる楽しさを知ればよかったのに。
あれ。でも、あの年長者たち、全然テレビゲーム世代じゃないな。
あれ、そういえば、僕、一度も、積み木で遊んだことねえや。
んー、よくわからない。
自分でもよくわかっていない話は、無駄に長くなるんだな。

 

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