日本には「道」がたくさんある。
剣道、柔道、茶道、華道・・・。
この国はなんでもかんでも「道」にするといわれるが、
スポーツや生活文化をただの技能で終わらせずに、思想にまで高めて「道」にする際は、
必ず「場」を神聖なものとして扱うことになっている。
剣道における道場、茶道における茶室。
すべての基盤となる「場」に敬意を払わずして、「道」はスタートしない。
「道」としての、「場」でのふさわしい振る舞いが決められ、
ふさわしくない振る舞いが、締め出されていく。
「道」は教育と相性がいいので、気を抜いていると学生のスポーツはすぐに「道」化する。
「柔の道」が、柔道に生きる人の進むべき道であるように、
「野球道」という言葉は、野球をする人の進むべき道として既に浸透している。
柔道、剣道ほどではないにしろ、野球には既に、「道」が入り込んでいる。
「サッカー道」というのは、まだ、聞いたことがない。
サッカーにはまだ「道」が入り込んできていないようだ。
サッカーにはまだ「道」が入ってきてはいないが、
試合に投入される選手は、ピッチに入る前に、きちんと一礼している。
まだ教育上の「礼節」にとどまっているが、
気を抜いていると、そのうち「道」へ格上げされる恐れもあるので、
注意が必要だ。
野球はもう既に「道」が入り込んでいるので、
選手はグラウンドに入る前に、当たり前のように帽子を取って、しっかり一礼する。
大きく声をだすことも忘れない。
甲子園という高校球児・憧れの地に立てば、
必ず皆、その神聖なグラウンドの砂を持って帰ることを忘れない。
例えその砂に中国・福建省の砂が混じってるという事実を知っていても、
その神聖さはなんら損なわれることはない。
そんな、神聖化された野球グラウンドの中でも、
投手が上がるマウンドという場所は、さらに神聖化されている。
なぜバッターボックスではなくマウンドだけが特に神聖なのかは、誰も知らないが、
とにかくマウンドは神聖であり、
「神聖なマウンド」にあがる投手には、それなりの態度が求められる。
ただ、ボールを投げていればいいわけではない。
大相撲の横綱みたいなもので、マウンドにあがる投手には、
「プレイ」の質以上の、「品格」が求められるのだ。
たんなるスポーツなのに、そんなにおおごとにしてしまうのは、多分、日本だけで、
中国でも韓国、台湾でもマウンドを神聖だなんて思っていないと思う。
アメリカやスペインなんか、ちゃんと説明したとしても、理解される気がしない。
メンタリティが違いすぎる。
僕が所属していたアメリカの野球クラブにいたピッチャーは、
マウンド上で、唾を吐き、ガムを吐き、ひまわりの種を吐いて、鼻水を吹いていた。
片方の鼻の穴を人差し指で押さえて、鼻水をマウンドに吹き出し、
もう片方も同じように、マウンドの上に吹き出していた。
神聖なはずのマウンドは、唾とガムと種と鼻水で汚されていた。
日本の高校なら、そのピッチャーは監督にぶっ飛ばされていただろう。
メジャーリーグで活躍するようになった日本の野球選手の中にも、
グラウンドに入る前には帽子を取って一礼する選手は少なくない。
ヨーロッパリーグで活躍するようになった日本のサッカー選手でも、
ピッチから出る時に深々と一礼する選手は少なくない。
ただ、先日、世界一位のマレーと接戦を演じたテニスの錦織圭がコートを出る時に、
一礼しているところは、まだ見たことがない。
錦織圭は、14歳からフロリダのIMGアカデミーでやっているので、
頭を下げたり、頭を丸めたり、そういうことはしない。
軽く手をあげて歓声に応え、テレビカメラにサインするだけだ。
試合中にラケットをコートに落として回転させてキャッチしたりするし、
股の間を通した、人を食ったようなショットも普通にやる。
「道」をやっている人は、そういうことをしない。
彼は、「テニス道」とは一番遠いところにいる。
そんな錦織圭は、ATPツアーファイナルベスト4入りを決めた。
是非、今回は頂点をとってほしい。
「道」に従って歩いている人は、先に示された道があるが、
「道」をやっていない人は、自分で道を作っていくしかない。
頂点まで、あと2つ。
打倒、ジョコビッチ&(多分)マレー!
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