11/19 神聖なマウンド

日本には「道」がたくさんある。
剣道、柔道、茶道、華道・・・。
この国はなんでもかんでも「道」にするといわれるが、
スポーツや生活文化をただの技能で終わらせずに、思想にまで高めて「道」にする際は、
必ず「場」を神聖なものとして扱うことになっている。
剣道における道場、茶道における茶室。
すべての基盤となる「場」に敬意を払わずして、「道」はスタートしない。
「道」としての、「場」でのふさわしい振る舞いが決められ、
ふさわしくない振る舞いが、締め出されていく。

「道」は教育と相性がいいので、気を抜いていると学生のスポーツはすぐに「道」化する。
「柔の道」が、柔道に生きる人の進むべき道であるように、
「野球道」という言葉は、野球をする人の進むべき道として既に浸透している。
柔道、剣道ほどではないにしろ、野球には既に、「道」が入り込んでいる。
「サッカー道」というのは、まだ、聞いたことがない。
サッカーにはまだ「道」が入り込んできていないようだ。

サッカーにはまだ「道」が入ってきてはいないが、
試合に投入される選手は、ピッチに入る前に、きちんと一礼している。
まだ教育上の「礼節」にとどまっているが、
気を抜いていると、そのうち「道」へ格上げされる恐れもあるので、
注意が必要だ。
野球はもう既に「道」が入り込んでいるので、
選手はグラウンドに入る前に、当たり前のように帽子を取って、しっかり一礼する。
大きく声をだすことも忘れない。
甲子園という高校球児・憧れの地に立てば、
必ず皆、その神聖なグラウンドの砂を持って帰ることを忘れない。
例えその砂に中国・福建省の砂が混じってるという事実を知っていても、
その神聖さはなんら損なわれることはない。
そんな、神聖化された野球グラウンドの中でも、
投手が上がるマウンドという場所は、さらに神聖化されている。
なぜバッターボックスではなくマウンドだけが特に神聖なのかは、誰も知らないが、
とにかくマウンドは神聖であり、
「神聖なマウンド」にあがる投手には、それなりの態度が求められる。
ただ、ボールを投げていればいいわけではない。
大相撲の横綱みたいなもので、マウンドにあがる投手には、
「プレイ」の質以上の、「品格」が求められるのだ。

たんなるスポーツなのに、そんなにおおごとにしてしまうのは、多分、日本だけで、
中国でも韓国、台湾でもマウンドを神聖だなんて思っていないと思う。
アメリカやスペインなんか、ちゃんと説明したとしても、理解される気がしない。
メンタリティが違いすぎる。
僕が所属していたアメリカの野球クラブにいたピッチャーは、
マウンド上で、唾を吐き、ガムを吐き、ひまわりの種を吐いて、鼻水を吹いていた。
片方の鼻の穴を人差し指で押さえて、鼻水をマウンドに吹き出し、
もう片方も同じように、マウンドの上に吹き出していた。
神聖なはずのマウンドは、唾とガムと種と鼻水で汚されていた。
日本の高校なら、そのピッチャーは監督にぶっ飛ばされていただろう。

メジャーリーグで活躍するようになった日本の野球選手の中にも、
グラウンドに入る前には帽子を取って一礼する選手は少なくない。
ヨーロッパリーグで活躍するようになった日本のサッカー選手でも、
ピッチから出る時に深々と一礼する選手は少なくない。
ただ、先日、世界一位のマレーと接戦を演じたテニスの錦織圭がコートを出る時に、
一礼しているところは、まだ見たことがない。
錦織圭は、14歳からフロリダのIMGアカデミーでやっているので、
頭を下げたり、頭を丸めたり、そういうことはしない。
軽く手をあげて歓声に応え、テレビカメラにサインするだけだ。
試合中にラケットをコートに落として回転させてキャッチしたりするし、
股の間を通した、人を食ったようなショットも普通にやる。
「道」をやっている人は、そういうことをしない。
彼は、「テニス道」とは一番遠いところにいる。
そんな錦織圭は、ATPツアーファイナルベスト4入りを決めた。
是非、今回は頂点をとってほしい。
「道」に従って歩いている人は、先に示された道があるが、
「道」をやっていない人は、自分で道を作っていくしかない。
頂点まで、あと2つ。
打倒、ジョコビッチ&(多分)マレー!

 

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