横浜高校野球部の部長と監督が辞任した。
日常的に暴言や暴力的指導があったという。
横浜高校といえば、横浜高校出身で、DNAベイスターズ所属の筒香選手が、
育成年代に対する指導のあり方の改善を求めて立ち上がった経緯があったので、
母校の実情も耳にしての行動だったのかなと、想像してしまう。
筒香選手は、育成年代の指導者がチームの勝ちにこだわりすぎると指摘していた。
指導者の個人的な名誉のために、短期的な結果を求めすぎている、と。
将来ある子どものために短絡的なチームの勝利を目指すことは子どものためにならないと、
指導者もわかっているはずなのに、目先の結果にこだわり、そのために暴力を使ったりするのは、
監督も部長も関係者も子どもの親も、皆が、 変に「真剣すぎる」からだろう。
本来、スポーツは楽しむためにある。
それなのに、皆が真剣になりすぎて、目的が何かわからなくなっている。
それは野球でもサッカーでもラグビーでも同じかもしれないが、
その種目自体は、楽しむため、成長するための手段として始めたにすぎなかったはずなのに、
それを目的と履き違えるところから、勝利至上主義が始まる。
「たかが野球」なのに「たかが野球」とは言っていけない雰囲気は、
すべてを「道(野球道)」にしたがる日本人の悪い癖でもある。
野球に限らず、スポーツはたかがスポーツでもある。
スポーツに真剣な人は茶化されたりくさされたりすると怒るかもしれないが、
タレントの所ジョージさんは、スポーツ選手をたいして評価しないと、以前言っていた。
その理由として
「だって、毎日やってんでしょ。そりゃうまくなるにきまってる」というものだった。
そういう態度は、世間では歓迎されないし、
最近は、そういう言い方はバッシングされるので控えているのかもしれないが、
所さんは大人だな、と感じる。
みんなが褒めるスポーツを、たいしたことだと思っていない。
それは、例えば、子どもがいじめられていた時に、
学校を「しょせん、教育のひとつの形にすぎない」と見限ってしまうのと同じ。
学校は、子どもを教育するための一つの手段ではあっても、
自尊心を深く傷つけられたり、死ぬことを考えてまで行き続ける場所ではない。
学校のほかにも教育現場はあるし、
子どもが人間として行きていける場所はいくらでもある。
子どもは、世間で良しとされていることに従順になりやすいからこそ、
大人が、”所詮”、”たかが”という、メタ視点を持って子どもに接しなければならない。
スポーツに限らず、真剣であること自体に価値があるわけではないのは、
例えば、24時間チャリティ番組でマラソンをする人たちや
賭けマージャンや相撲賭博をしている人たち、
戦時中、一人でも多くのユダヤ人を収容所に送り込もうとしていた人たちを見ていればわかる。
彼らは真剣だろうが、真剣だからといって、そこに価値があるとは思えない。
子どもは目的を考えずに、単純に対象にのめり込んで真剣になりやすいからこそ、大人が、
「それってそんなに真剣になるべきことなのか」
「それを真剣にしていることで失っているものがあるんじゃないのか」と、
冷静に説く必要が、たまに訪れる。
とはいっても、スポーツが楽しいことには変わりがないし、
私は、普通の人よりもスポーツの動向を追っている。
スポーツは勝ち負けがはっきり現れる分、
感動を呼びやすいし、はまりやすい。
皆が真剣になる気持ちもわかる。
しかし、それは、ある意味、「甘え」でもあることを忘れてはいけない。
試合に勝てば、成績を残せば、それだけで褒め称えられるスポーツには、
プレーヤーやコーチに、善悪や、正しいことを考えさせる余地がない。
なにが正しいか考えることもせず、
ただ速い球を投げれれば、ただ遠くに球を飛ばせれば、
ただそれさえ上手くやっていればそれでいい、というのは、大人の責任ある態度ではない。
(それは、ジャスラックのスタッフが町のピアノ教室からも音楽使用料を徴収しようとするのと同じで、
真剣で真面目なスタッフほど、音のなる場所ならどこにでも出かけ、純粋に徴収を行おうとするのだ。
目的と手段を取り違えた時の「真剣さ」は怖い )
自分の置かれた立場で、やるべきこと、あるべき姿を常に考え、
弱い立場の者を含む全体の利益のために、試行錯誤を繰り返す。
それが大人の役目だろう。
だからこそ、野球界のあるべき姿を考える筒香選手の態度は大人に見える。
関係者は、きちんと彼の言葉に耳を傾けてほしい。
大人は、「球投げ・球打ち」に子どもと一緒に真剣になるのではなく、
「球投げ・球打ちが子どもらの成長のためにどうあるべきなのか」について、子どもと違う視点から真剣に考えてほしい。