井上雄彦による国民的漫画『スラムダンク』の映画「THE FIRST SLUM DUNK」を見にいった人の感想は皆、「最高」というものだが、皆がそろって、「最高」としか言えないのは、そこになんの考察のしがいもないからである。
映画やマンガなどで色々と考察するのが好きな人のことを「考察厨」と呼んだりするが、皆、作品を見て、「伏線がー」とか、「このモチーフはー」とか「実は以前にー」とか、あーだこーだ言いたいし、あーだこーだ言える作品がいい作品のようにもなってしまっているが、「THE FIRST SLUM DUNK」は、なにも考察することがないし、あーだこーだ言うことがない。
もちろん作品内で描かれていない部分を推察したり、キャラクターのセリフの意味を推測したりすることはできるので、考察する部分はあるっちゃあるのだが、そんなことが意味ないと感じるくらい、映画の表現力とこれまでのストーリーだけで、十分、訴えかけてくるものがある。
『スラムダンク』が連載されていた当時から20年が経ち、バスケットボールを取り囲むシーンも変化したし、当時、日本になかったプロのバスケットボールリーグが創設され、八村塁や渡邊雄太は、NBAで名だたるスーパースターたち相手に素晴らしい活躍をみせている。
当時の『スラムダンク』の中の高校生はアメリカ行きを夢見るだけの存在だったのに、20年の間に、現実がマンガを軽く超えてしまったわけだが、それでも、変わらず、『スラムダンク』の魅力は衰えることがない。
これはひとえに井上雄彦という大漫画家の技量と熱意のおかげだが、井上雄彦が『バガボンド』を終わらせられなかった苦悩の後に、『スラムダンク』のアニメでの「再創造」ができたことは誉れでしかない。
冒頭に『スラムダンク』は国民的マンガと書いたし、『スラムダンク』は売上や影響力からいっても、間違いなく国民的マンガであることは間違いないが、正確には、ある特定の世代に強烈に影響を与えたマンガである。
そして、それは日本だけでなく、韓国や台湾などのアジア圏の同じ世代にとっても同じ働きをした。
彼らにとっても、『スラムダンク』は重要な作品であるし、今回の映画もアジア各国で大ヒットしている。
そういう意味で、『スラムダンク』は「国民的マンガ」というより「大アジアマンガ」である。
また、「THE FIRST SLUM DUNK」があーだこーだ言えない作品ということは、言語的でない作品ということで、実際、作品の終盤のクライマックスには、セリフがまったくないシーンが続く。
マンガやアニメを政治と結びつけるのは野暮の骨頂でしかないが、言語的でないものは論争的にもなりにくいため、日韓問題や日中問題のような国や文化を超えて、ぼくらは「スラムダンク」を共有できる。
解釈をする必要がない『スラムダンク』は、同じ青春の思い出を持つ仲間のように、アジアで青年期を送った僕らの記憶として残る。
もしも、井上雄彦がノーベル平和賞にノミネートされとしたら、そのことが『スラムダンク』の価値を逆に汚してしまうくらい、『スラムダンク』は、政治や言論とは別の位相で、人と人とをつないでいる。