ボールっていいよね。丸いしね。
その昔、おもちゃというのは、その辺に転がっているものや大人が使っていたものを、子どもがおもちゃとして改変して使ってただけだった。
つまり、おもちゃは最初からおもちゃだったわけではなく、「おもちゃにする」「おもちゃになる」ことによって、子供が遊ぶものになっていた。
それが、いつの時代からか、おもちゃがお金を出して買うものになったあたりから、おもちゃは「目的」を持つようになった。
「ままごと」をするための人形。
「ごっこ遊び」をするための変身ベルト。
「動く車」で遊ぶためのプラレール。
遊ぶ目的を持たないおもちゃは存在せず、おもちゃの箱には「遊び方」が記された。
遊び方は遊ぶ子ども達が自分で作るわけではなく、おもちゃを作る大人が先に決めるものであった。
さらに、知育玩具においては、遊び方などの「目的」だけでなく、それによってどのような能力が育つかという「効果」が謳われるようになった。
思考力を養います
忍耐力が身につきます
空間把握能力が育ちます
それらの効果を期待して、親たちは、子どもにおもちゃを与えるようになる。
しかし、特定の遊び方と決まりきった効果があるおもちゃによって育まれる能力は高がしれているし、第一、飽きも早い。
砂遊びで子どもたちが長い時間遊べるのは、遊び方も効果も指定されていないからである。
また、遊びに「効果」はあまり必要ないという前提の元、仮におもちゃに「効果」があるとしても、その「効果」は、応用的なものよりも、基礎的で汎用的なものがいいに決まっている。
電動えんぴつ削りを使いこなす能力よりも、ナイフを扱う能力のほうが汎用性があることは、誰もが同意するだろう。
その点、ボールは、汎用性が高い。
投げたり、蹴ったり、ぶつけたり、跳ね返したり、浮かせたり、空気抜いたり。
既製品で固められた子どものおもちゃの世界にあって、いまだに、遊び方が多様なおもちゃの一つである。
それにボールは詩的なおもちゃである。
「円」や「玉」といい性質がそもそも詩的だし、
「パスする」や「転がる」や「ぶつかる」が社会的な表現の比喩である。
ボールは子どもを「世界」と「社会」に導く。
子どもは、トイザらスで買った知育玩具よりも
もっと、そのへんにある物か、そのへんに転がっているボールで遊んだほうがいいだろう。