ひとりでいられる能力

「孤独」は、現代の「問題」なのだろうか。
孤独であることはいつの時代も「問題」になるような気もするが、生産活動も消費活動も一人で完結できる現代社会で、孤独はことさら問題にすべきことでもないのだろうか。
それとも、一人で金を稼いで、一人で暇つぶしができる時代、というか、積極手に、会社の飲み会を迷惑だと思い、友達と居るより自分一人で好きなアニメやゲームに没頭しているほうが楽だと感じるような時代であっても、孤独は「問題」にすべきなのだろうか。

日本語で「孤独」に近い言葉は「ひとりぼっち」くらいしか思い浮かばないが、「孤独」を英語で表現しようとすると、いくつかの単語が出てくる。
「loneliness」は、孤独のネガティブな側面を意味する。
「alone」 は「単にひとりである」という意味で、ネガティブな意味あいもポジティブな意味あいも含有されていない。
「solitude」は、孤独のポジティブな側面を意味する。
らしい。

心理学者のウィニコットは、「ひとりでいること」を肯定的に捉えた論者の一人であり,「ひとりでいられる能力 (the capacity to be alone)」という概念を提唱した。
この概念は,単に「孤立に耐えられる能力」を意味しているようにも聞こえるが,そうした「一匹狼的に行動する人」や「他人から距離をとりたがる人」というイメージではなく、「他人と一緒にいてもいなくても平気な人」を想定している。

ウィニコットの言葉でいうと、「ひとりでいられる能力」を持つ人は、「ひとりでいてふたりでいる」と同時に、「ふたりでいてひとりになれる」人ということになる。
どういうことかというと、ひとりでいられるような人というのは、幼少期に養育者(主に母親)と安定した関係を築いており、安心感に包まれた過去を持つため、「(空間的に)ひとりでいたとしても、(母親と)ふたりでいる」感覚を持つことができ、特に孤独を感じることがない。
それと同時に、養育者(主に母親)との関係において安定した内的世界を創造できたために、「ふたりでいても(=他者といても)、ひとりになれる」というのだ。

つまり、そういう人は、心の中の親密な他者の存在によって、「現実の一人の状態(=孤)」に不安になりすぎないとも説明できるし、
それと同時に、「他者と一緒に居なければならないとしても、他者に呑み込まれる不安を感じすぎることなく,心的にひとりの状態(=個)を維持できる」とも説明される。
いうなれば、「ひとりでいられる能力」とは,「孤の不安」「個の不安」のいずれも感じすぎないでいられる力のことを意味している。

そうした分析を現代の「問題」に当てはめれば、飲み会を忌避する人や一人で「ヲタ活」をしているような人たちは、他者が自分のテリトリーに入ってくることに不安を感じているという点で、「個の不安」を抱えているといえる。
一方で、スマートフォンが手放せない人や、SNSに入り浸っているような人は、他人からのリアクションがないと不安という点で、「孤の不安」を抱えているといえるだろう。
それは、どちらも、ウィニコットのいう「ひとりでいられる能力」が高いとはいえない状態である。

ただ、ウィニコットは「ひとりでいられる能力」の源泉を、養育期の親との関係に求めたが、幼年期の受動的な関係だけでなく、青年期以降の能動的な努力によっても、その能力は十分伸ばすことができるように思う。
古今東西の思索家たちが「孤独」を精神を磨く機会としたように、ひとりぼっちでいることを噛みしめることが、「ひとりでいても平気だし、誰かといても平気」という精神の強さを養えるのだろう。

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