思い立ったが吉日

京都に住んでいるので、朝起きて、「そうだ、京都へ行こう」と思い立つことはないけれど、「そうだ、山へ登ろう」と思う日はある。
京都は山に囲まれたというか、近くに登れる山がけっこうある街なので、思い立ったが吉日、すぐに山登りに行くことができる。

山登りはお金がかからないというか、お金のことを考えなくても大丈夫なアクティビティなので、「いくらお金を持っていったほうがいいかな」とか、「クレジットカードは一応、持っていったほうがいいかな」とか、余計なことを考える必要がないので、楽。

とはいうものの、山に登るのは一人ではなく、二歳の娘を連れてのことなので、途中、お茶やらお菓子やらを買う可能性も考え、少し多めに持っていこうと、リュックに荷物を詰めながら考える。

それに、本日登る山は初めて登る山である。
見知らぬ土地では「お金が力」であることを教えてくれたのは父親で、海外など、初めての場所に行くときは、「これくらいあればいいかな」という金額よりも気持ち多めのお札を持っていくようにしている。
信用も縁故もない土地では、ポケットに入っている札束の枚数が安心感を決めるのだ。
たくさん入っていれば、果敢に知らない場所にも分け入っていけるが、心もとない枚数だと、安牌な行動しか取れない。

だが、そうはいうものの、今日登るのは裏山程度の低い山であり、山では現金を使う場所もない。
多少気持ち多めに千円札をポケットに入れて、子どもの手を引きつつ、山の麓に向う。

山の麓までは自転車で向かう予定だったが、思いの外時間がかかるようなので、ローカル電車に乗って向かうことにする。
すると、子どもが乗車する前にもかかわらず「お腹が減った」と言い出したので、コンビニでご飯でも買うかと思ったが、コンビニの隣に、家族経営のこじんまりとしたアットホームおにぎり店があったので、吸い寄せられるようにそこに入っておにぎりを買うことにした。
しかし、それが思いの外、値の張るおにぎりで、個人経営の厳しさを恨めしく思いつつ、店を出ると、また、子どもがおにぎりだけでは我慢ならないらしく渋りだしたので、仕方なく、隣のコンビニにも寄って、「黙らせラムネ」と「黙らせビスケット」を買い、念の為に、「黙らせオレンジジュース」もレジに持っていく。

ようやく電車に乗り、登山客の登山客らしい格好を横目に電車に揺られていると、目的駅にはすぐついたので、二人で降りて、「さぁ、山に登ろう」と思ったが、前日の雨で登山道が荒れているため、「登山者はロープウェイとスロープカーに乗ってくださいね」との、係の人からのお達し。
僕は「山に登りにきたのであって色んな乗り物に乗りにきたのではないのにな」と思ったが、登山を楽しむためには、ロープウェイとスロープカーに乗るしかなく、5合目までは乗り物に乗ることをしぶしぶ自分に承知させる。
この時点で、思ったよりお金がかかっていることに気づき、ポケットの中でお札を触り、残りの枚数を確認しておく。
そこで触覚にだけまかせ、ちゃんと目で確認しないのは、現実を見たくないから。
見てしまえば、これからの登山に「お金」が入り込んできてしまう。
それは招かれざる客である。

ロープウェイに乗ると、早速、娘が気持ち悪くなって吐きそうになったので、念の為に買っておいたオレンジジュースとラムネを与える。
「念の為アイテム」は、「登り」ですでになくなりはじめている。

ロープウェイを降りると、大変見晴らしのいい場所であり、崖下を見下ろせる位置に、かわらけ投げという、素焼きの土器を的目掛けて投げることで厄除けになるという祈りの遊びが設置されている。
見てみると、土器が二枚で100円と書いてあったので、「そんなのに金だすわけないじゃん」と思っていたら、娘がすでに備え付けのマジックペンで土器に落書きをしていた。
そこにペンがあれば握る年頃。
仕方なく、賽銭箱に100円を投げ入れ、娘は、届くはずもない的を目掛けてかわらを投げ、かわらは崖の手前にポトッと落ちた。

その時点で、まだ「登り」だというのに、お金を使いすぎているなと感じたので、係の人の忠告を左耳から右耳に流して、スロープカーには乗らずに、歩いて山道を登ることにした。
見たところ、道が荒れているといっても、しれている気がする。
それに、「スロープカーに乗れ」というのは、営業の一環かもしれないしね。

そこから参道を登り、時間はかかったが、なんとかお目当ての寺を参拝した。
そこで、境内に掲げてあった案内図に目をやると、そこからさらに奥に行けば、さらに立派な寺があるとのこと。
しばし考えて、よし、向かおうかとは思ったが、思いの外、距離がある。
子どもはすでに背中でいびきをかいているので、かついでいくより他はない。
歩きではなくバスで向かおうかと、バスの運転手に聞いてみるが、思ったよりも運賃が高く、帰りにかかる運賃を考えると、ちょっと不安になって、バスは断念。
まぁ、最悪、陽が暮れてくれば引き返せばいいよなと思い、その寺に向かって歩き始めた。

子どもをおぶっての山道は、普段の倍疲れはするが、なんとか、目的地の立派な寺には夕暮れ前に着いた。
寺の広い境内を通り、寺の山門をくぐろうと、門の前にきた瞬間、頭上の看板に、「拝観料 大人900円」という文字が目に入り、そのまま踵を返して、下山準備に入る態勢に入る。
いくら立派な寺でも、今、900円出す余裕はうちの家計にはない。

と、そこに、ハッピを着たおじさんたちが、ニコニコしながら「抽選会やってますよー」と子どもに近づいてくる。
こんな山奥で抽選会なんてよくわからないが、話によると、どこかの偉い坊さんの何百周年かなんかのお祭りりで、子どもは特別に、なにも買わなくてもガラガラ抽選会に参加できるということらしい。
お金がないのにアクティビティができるなんてこれ幸いと、寝ぼけ眼の子どもに取っ手を握らせ、慣れない手つきで、ガランガランとゆっくり取っ手を回させると、純白の玉がポロっと落ちてきて、笑顔のおじさんが、「はい、当たり」と、厄除けのキーホルダーを手渡した。
僕が欲しかったのは寺の入場券だったし、娘も食べ物がもらえるものとばかり思っていたので、二人して意気消沈して帰りの行路を探した。

「登り」にお金を使ってしまったが、このまま行けばなんとか、「バス→スロープカー→ロープウェイ→ローカル電車→駐輪場」の料金くらいは払えるとの計算がポケットの中の指先がはじき出したので、そのまま停まっていたバスに乗った。
すると、バスは思った方向とは違うルートを走りはじめ、降りたい駅が近づいてきた時には、想定の二倍の料金が表示されていた。

とりあえずこれにより、ポケットに残っているお金が300円となり、すべての乗り物に乗って帰ることはできなくなってしまった。
頭の中で、スロープカーやローカル電車を無賃電車する方法をいくつかシュミレーションしてみるが、ノロマな子どもがいるとどんな方法もうまくいきそうにないので諦め、服とリュックのポケットというポケットをしらみつぶしにまさぐってみたが、価値のある硬貨は出てこなかった。

あぁ、万事休す。

もう父は犯罪に手を染めるしかないかもしれませんと、無垢な子を前に覚悟した瞬間、ふと思い立って、子どものジャンバーのポケットに手を入れてみると、ポケットの内側についているジッパーの内側のポケットに、500円硬貨が残っていた。

おぉ、ズボラの神よ。
かつて、スーパーで子どもにお釣りをねだられて、そのまま子どもがポケットに硬貨をいれておいたのを放っておいた過去の自分のズボラさよ。

この時点で残金が800円となった。
山の上の「800円」は街の「800円」とはわけが違う。
「山の下り」の時点における「800円」という響きの力強さに勇気をもらい、案内所のおばちゃんのもとへ小走りでかけよる。
持ち金が800円になったとはいえ、乗れるのは、電車とロープウェイだけ。
スロープカーは行き同様乗ることはできないため、おばちゃんに、そこからのスロープカー無しの登山道の下り方を聞き、娘とともに降りていく。

その後、無事、「ロープウェイ→ローカル電車」と乗り継ぎ、もより駅の駐輪場にたどり着く。
が、帰ってくるのが思ってたより遅かったため、駐輪料金が想定の2倍になっている。
結局、100円足りず、仕方がなく歩いて家に帰った。

無事、家に着いて振り返ると、なんだかんだ登山なのにお金のかかるアクティビティになってしまったし、気持ち多めに持っていたはずなのに、それでもお金が足りなかったということは、知らない土地に行く時は、気持ち「かなり」多めに持っていく必要があるのだなと、考えを新たにした。
ただ、本当に自分が楽しめるのは、「お金のかかるアクティビティ」ではなく、「お金が足らない中で考えながらやるアクティビティ」なのだということは、今回の経験で再確認した。
だから、これからも、知らない土地に行く際は、「気持ち多めに持っていく」つもりにしていても、本当は持っていかない可能性のほうが高い。
だって、そっちのほうが面白いからね。

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