京都大学の入学式で、京大の学長がボブ・ディランの歌詞を引用し、
それをホームページに載せたことに対し、
JASRACは京都大学に問い合わせをし、
歌詞の使用料が必要になる可能性を伝えていた。
幸い、というか、結果的に、京都大学の歌詞掲載は、
範囲内での「引用」に当たるとして、
JASRACは徴収は行われなかったのだが、
なんでもかんでも金を徴収しようとするJASRACの姿勢に批判が集まっている。
社会学者の宮台真司氏は、
著作権を守るのは、文化を保つという目的のためであり、
著作で食っている人達のなりわいを保障するためではないという。
文化を保つのが、目的であり、
なりわいを保証するのは、手段。
そこを履き違えて、著作物が使用されていることを知るなり、
すぐに金を徴収しようというのは、
(目的であるはずの)文化そのものを縮小させることにつながると指摘する。
目的と手段を取り違えることは、どこにでも見られる。
会社の実態を把握するために数値化しているのに、
その数値を追いかけることに誰もが躍起になったり、
どこまで理解しているか確認するためにテストがあるのに、
テストの点数をあげることに夢中になったり、してしまう。
ある会社では、社長が会社をまとめあげるために、
宗教的な精神論を取り入れたのに、
会社を引き継いだ息子が、本気でその宗教を信じてしまい、
会社を繁栄させることよりも、宗教を布教することに走ってしまったって話もある。
「社長のお前が、本気で信じてどうする!?」
そう、先代の社長は、嘆いたことだろうが、
真面目な息子は、それが手段だとは思えなかったのだ。
そういう現象を、宮台氏は、「ネタがベタになる」と呼ぶ。
ネタ(手段)として利用していたものが、
時間がたったり、世代が代わるにつれ、ベタ(目的そのもの)になる。
もともとはネタだったのに本気になられても困るのだが、
時に人は、ネタ(物語)を信じ込む。
自分の頭であれこれ考えるより、
ネタ(物語)の中で生きている方が安心だったりするからだ。
だけど、ネタ(手段)は、ネタ(手段)でしかない。
ネタ(手段)に向かって進んでも、目的(地)には届かない。
JASRACは、多くの著作権を管理して、
多くの音楽家のなりわいを保障しているが、
大学の入学式でボブ・ディランを引用したくらいで目くじら立てるのは野暮の骨頂だと
JASRACになりわいを保障されている多くの音楽家は、
思っているに違いない(と思いたい)。
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