子どもがいると、「どういう大人になってほしいか」や「どんな仕事に就いてほしいか」のような会話になることがある。
そういう時に、決まって、「子どもが楽しんでいればOK」とか、「子どもが好きなことならなんでもいい」と答えるのは、親の本心に間違いないだろうとは思う。
ただ、自分がその質問をされた際、目の前の子どもがどんな大人になってほしいかについて何のイメージも沸かず黙ってしまうのは、私の想像力が乏しいからではなく、「大人のために子ども時代をやっているわけではないしなぁ」と思うからである。
子ども時代は、「大人時代」のための準備期間ではなく、彼らにおける「本番期間」なのである。
子どもは、毎日毎日、本番の日々を送っており、どちらかというと、子ども期が終わり、思春期も終わって、大人として生きていく日々が、人生における「おまけ期間」みたいなところがある。
同じ時間でも、子どもは大人よりも長く感じるとされていて、たとえば、人生100年時代の折り返し地点を「体感時間」で測った場合、人生の折り返し地点は数字的な真ん中である「50歳」ではなく、「8歳」くらいである。
つまり、体感的には、小学生の段階で、我々はすでに人生の半分を済ませており、思春期を終えれば、あとの人生は、「余暇」みたいなものである。
それなのに、教育的な大人は子どもに対し、おせっかい的に、大人になってから役に立つようにと、子どもが子どもでいられる時間を削る。
子ども期間を将来のための準備・練習期間と大人がみなしている間に、子どもたちにとっての本番の日々は終わっていく。
彼らにとって、そして同時にかつての私達にとって本番であり晴れ舞台であった日々は、まさに「今」「その時」なのだから、「将来子どもにこういう大人になってほしい」という願望があるはずもなく、「今、子どもがどうあってほしいか」という問いに対する答えしか、本当は意味がないように思う。
先日、ふと、流しっぱなしにしていた無音のテレビの中で、独創的な絵を描く小学生の女の子が特集されていた。
確かに、彼女が描く絵は、一般的な小学生が描くものと違い、目を引く要素があり、本人も夢中で絵を描いているようなので良きことだと思って眺めていたのだが、大人たちが、絵のような制作物(アウトプット)で子どもを評価するのはあまり褒められたことでは無いなと思って見ていた。
絵であっても、暗記や感想文や夏休みの研究のような言語・記号による創作物であっても、はたまた、スポーツや将棋のようなパフォーマンスであっても同じことなのだが、子どもの優れた成果物というのは、子どもにしてはよくやっているとしても、大人と比較して優れたものはめったにない。
たとえ、子どもながらの感性を活かした芸術作品であっても、その感性は数年後には消えている可能性があるし、大人になる前に他の子に感性的に「追いつかれる」ようなことはよくある。
それは、小学5年生で 170センチある子が、成人しても170センチのままであることがざらなように、成長が早かったことで目立っただけであり、時間がたてば、皆とほとんど同じところに立っている。
先に出発したものが後で追いつかれると言うのは特段、寓話の中だけの話ではない。
成果物で評価されるのは大人の世界のできごとである。
プロ野球選手は「成績」で評価され、営業マンは「契約件数」で評価され、学者は「論文の掲載数」で評価される。
さらに言えば、大人の世界でも、成果物を個人の手柄に還元することは、実は、ほとんどない。
大抵の手柄が個人ではなくチーム全体での手柄であり、また、環境や時代が手柄を作ったり、タイミングや出会いなどの運が手柄を運んでくることもある。
大人の世界でも手柄は個人に還元されないんだから、子供を成果物によって評価する事は避けたほうがいい。
大事なのは、成果物ではなく、その対象が子ども自身の満足や夢中を引き起こしているかどうかだけである。
子どもこそが、「結果」ではなく「過程」を生きる存在であるのだから、大人は、子どもが満足しているか、夢中になっているかの「状態」にだけ気をつけて見ていれば、それだけで大人としての役割は充分果たせているともいえる。
そして、子どもが「本番」である子ども期間を豊かに生きることができれば、結果的に、後々、その「おまけ」期間として続く「大人時代」を豊かに生きることもできる。
大人がしてあげられる事の第一は、将来のためにスキルや能力を身につけさせてあげることではなく、子どもが「子ども時代」を豊かに生きられるようにサポートすることだけである。
子ども時代に、将来のためのスキルや能力について考えることは、コンサートや演劇の本番中に、次の日のレッスンで先生に怒られないか思案しているようなものである。
それは、「本番中」に考えることではなく、人生の「本番」が終わり、人生の「余暇時代」である大人時代が始まったときに、改めて考えればいい話である。
本番中は、本番に集中したほうがよいし、させてあげたほうがいい。
そしてまた、多くの場合、大人時代に、世の中の役に立つような成果物が残せる人というのは、社会に出る前の長い子ども時代に、「豊かな時間」を過ごした人たちなのである。
逆説的ではあるが、「目的」を持たない人のところに「達成」は訪れる。
そして、その「達成」が訪れようと訪れまいと、「本番」をきっちり生きた子どもたちは、大人時代の「成果」や「比較」にそこまで拘泥しない。
マウントの取り合いこそが生きていることだとでもいうような今の世の中において、「自分が達成した成果」や「他者との比較」に引っ張られないことは、なによりも健やかに生きる術でありましょう。