アメリカってどうやら「敬語」がないらしい。
そう気づいたのは、アメリカに留学する数ヶ月前だった。
敬語がなかったらどうやって相手に敬意を示せばいいのだろう。
相手を慮る「気遣いの国」で生まれた私は、渡米を前に、どうすればいいのか戸惑ったが、当時は「yahoo知恵袋」もなく、誰にも尋ねることができなかった。
しかし、その戸惑いはアメリカに行って、すぐに杞憂に終わった。
学校の先生さえもファーストネームで呼ぶようなフランクな環境でも、相手に敬意があることは、その言葉の内容から伝わることにすぐに気がついたのだ。
日本語は敬語という「形式」で敬意を示すことを重要視するが、英語は「内容」でそれを代替する。
日本語では「〜でしょうか」とか「申し上げます」とか、敬語という「形式」に則って話せば、内容云々ではないところで、相手に敬意を払っていることはわかるが、英語では、その「形式」がないので、話している内容で示せばいい。
日本語圏は「言わなくてもわかる」圏だが、英語圏は「言わなきゃわからない」圏であるということは、英語圏は「言えばわかる」圏でもあるということである。
先生を「David」と呼ぼうが、丁寧語を使わなかろうが(英語は形式としての敬語はないが、丁寧な言い方はもちろんある)、内容が不躾でなければ、目上の人に対し失礼には当たらない。
そのことは理解しながらも、「気遣いの国」の住人である私は、話す内容と同時に、態度も重要だろうと、当初、先生と話す際は、なるべく姿勢を正して話していた。
日本で、なにか悪いことをした時に、我らは、申し訳無さそうな顔をしたり、エンドレスにお辞儀をしたり、時には、土下座をしたり、坊主にしたり、そうした「態度」で示す必要があるように、態度というのは、敬意を示す一つの重要な要素である。
そうしたことは、古今東西どこの文化圏でも見られることだろうが、注意すべきは、その態度が何を示すかは、文化ごとに違うということだ。
英語圏で、いきなり坊主にしても、謝罪の意味が込められているとは伝わらないし、
食事の席で、相手のビールを勝手についであげても、それが敬意だとは気づかれない。
日本の敬意ある態度が、相手の欧米人に敬意を伝えているかどうかは怪しいぞ。
そう感じたのは、アメリカの学校で、授業中に先生に暴言を吐いて、校長室で説教を受けていた女生徒が、ソファに深くもたれかかって、足を組みながら反省した表情をしているのを見たからだ。
日本人の私から見たら、どう見ても怒られている人の態度ではなかったが、彼女が校長先生に対して敬意を抱いていることは、普段の態度からわかっていた。
それなのに、ソファに深く腰掛けて、足を組んでる・・・・。
日本なら、その時点で反省の色が見られないと判断されるだろうし、そもそも、ソファへのもたれかかりの深いことといったら、日本人にはマネできない。
ソファに深く座ることを「偉そう」と教えられてきた我々なら、反省の意を示すために、ソファの縁にちょこんと腰を置くところだろう。
だが、ソファに深く腰掛けても、足を組んでても、反省はできるのだ。
このように、「態度」は文化によって受け取られ方が違う。
欧米においては、相手に敬意の意を表したいなら、敬語などの「形式」ではなく「中身」だし、
大人社会においては、「言葉」ではなく「金」などの実利あるものになる。
日本社会は何かあると「謝罪の意」を要求するが、欧米社会はそれを「金」で解決しようとする。
「誠実さとは”金額”のことだ」と言ったのは、どこの国のスポーツ選手だっただろうか。
ただ、日本では日本人式の敬意の表し方や謝罪の仕方があるので、日本社会で生きる以上はそれを身につけなければならない。
それは学校でも家庭でも包括的には教えてくれないので、ケーススタディとして子どものうちに習う必要がある。
しかし、それは、ケーススタディなので、そのケースに当たらずに生きてこられた人には身につかない。
「謝り方のうまかった人って誰?」と問われて、ふと、ボクサーの亀田興毅(兄)が思い浮かび、下手な人として、政治家全般が思い浮かぶのは、人生においてそうしたケーススタディに触れてきた彼らの経験の差のような気もする。
ただそれは、これまでの内に閉じていた日本社会での話であり、これから、日本式態度がどうあるべきかについての是非は、また別の話である。