雑な暮らし系

ものを大切にせずに生きてきた。
落とし、壊し、履き潰し、くたくたにしてきた。
もし、僕の人生を上映する映画館があれば、「ていねいな暮らし系」の人たちにだけはきてほしくない。
「雑な暮らし系」の映画になることは避けられないから。

「ものを丁寧に扱わない」のは多分に生まれながらの性格のせいだと思うが、考えてみると、それなりにこちらの言い分もある。
ものを丁寧に扱わないのは、ものに「居着きたくないから」だ。
セーターを丁寧に丁寧に扱おうとすれば、セーターが伸びないことを、ヨレないことを、色褪せないことを願う。
しかし、ものは状態が変化するし、劣化していく。
時が経てば、伸びるし、ヨレるし、色褪せるのはどうしようもない。
それをなるべくさせないのが、ものを丁寧に扱うということなのだろうが、そうしてしまうと、セーターをなるべく動かさないように、働かせないように、着ないようにする方向に気持ちが向いてしまう。

セーターがだめになるから、なるべく激しい運動をする日は着ない。
最初はその程度の気持だったのが、だんだんと、雨の日は着ない、日差しの強いは着ない、外に長くいる日は着ない、満員電車に乗る日は着ない、食事する日は着ない、子どもと接する日なんか絶対着ない、と制限が多くなる。
最終的には、クローゼットに吊るしておくのが一番ということになる。
これは、モノにお金をかける人たちやコレクションする人たちの間の「あるある」で、スニーカー好きが、スニーカーを眺めているだけだったり、履いても絶対に汚さなかったりする。
でもスニーカーは、足を守るためにあるわけなのに、スニーカーが汚れるのを嫌がったら、なんのための靴かわからない。

僕は、もし外に出て、そのへんの子どもにセーターを伸ばされても「ちょっとやめてよ」などと言いたくないし、お店で、新人の店員さんにミネストローネをこぼされても、「これ拾ったセーターなんで。問題ないです」と言える状態でいたい。
ちょっとモノにシミがついたくらいで気を揉むくらいなら、最初からモノなんて持たなくてよいと思ってしまう。

大人になると雨の日が億劫になるものだが、雨の日が億劫なのは、濡れたくないのと同様に、持ち物を濡らしたくないことからきているように思う。
雨の日に、傘の中に縮こまって、身を守りながら水たまりを避けて歩く女性たちを眺め、そのあとに、長靴をはいた子どもたちが水たまりの中を突進していく姿を見ると、持たざる者の強さを想う。
失うものがない者は、強い。
それを「雑な暮らし系」と呼ぶなら、それはそれでと思ってしまう、のも、生まれながらの性分なのかもしれない。

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