「誇り」と「pride」

  

高校生に英語を教えていると、
「頻出熟語」というのに出くわす。
テストによく出る、覚えておくべき熟語のことだ。
その中に、「take pride in」という、
「pride」に関する熟語が出てきたので、
アメリカ人が日常会話で、
どれほど「誇り」の話をするかという話をする。

「I’m proud of my son(私は息子を誇りに思う)」や
「Be proud of yourself(自分のことを誇りに思いな)」など、
アメリカ人は、日常でよく「誇り」を口にする。
もちろん、「pride」と「誇り」は同じではないが、
日本よりも遥かに多くの頻度で、彼らは普段から、「誇り」の話をする。
それに比べて、日本の日常会話で「誇り」の話なんて聞いたことがない。
日本人には、「誇る」ものがないのだろうか。

今の日本人は、自分たちの「依るべきもの」が無くなり、
「誇り」を持てなくなってしまったのかもしれない。
そう考えてみたが、
たぶん、歴史をさかのぼっても、日本人は日常会話で
「誇り」なんて、口にしてきてないよな、と思う。
人々があえて口にしなくても、「誇り」は確かに存在していて、
それは「言葉」以外の形で、日本の日常に現れていたはずだ。
日本人がアメリカ人ほど頻繁に「LOVE」を口にしなくても、
ちゃんと日本に、「愛情」があるのと同じように、
「pride」を口にしなくても、「誇り」はちゃんと日常にあった。
ある言葉を口にする回数と、その言葉が指し示すものが存在する量は、
特に、比例しない。

ただ、気持ちや感情を「言葉」にしてこなかったこの国では、
「言葉」が指し示すものがだんだんと無くなっていっているとしても、
そのことになかなか気づきにくい。
「言葉」にしていれば、その「言葉」や「フレーズ」を聞かなくなったことで、
消えつつある危機に気づくこともできるが、
「言葉」にせず、「日常生活に潜ませる形」でしか思想を残していないこの島の文化では、
それがまだ残っているのか消えてしまったのかを、
簡単に確認することができない。
日本人から「誇り」は消えつつあるのか、
それとも、見えなくなっているだけなのか。
それは、簡単にはわからない。
ただ、 それは、「言葉」の重さを変えることで見えてくる可能性がある。
日本人にとって、日常会話での「尊敬」や「愛情」が重すぎるように、
「誇り」という言葉が、今の人にとって、重すぎるだけなのかもしれない。
「リスペクト」というフランクなカタカナ語が入ってきたおかげで、
「尊敬」の裾野が広がったように、
「誇り」をもっと気軽に表現できるフレーズが出てきたら、
日本人の”気軽な”「誇り」がもっと見えやすくなるのかもしれない。
もし、そこまで「誇り」が”気軽”の方に歩み寄っても、
人々の日常会話に「誇り」がのぼることがなかったら、
その時は、日本人に「誇り」は消えたということなのかもしれない。
その時は、悲しむより他はない。