11/22 Merry Christmas

クリスマスシーズンだ。
街ではクリスマスソングが流れている。
僕は今のシーズンはもちろんのこと、
7月、8月の、熱帯夜が続くような夜でもクリスマスソングをかけて眠りについている。
そのくらい、クリスマスを敬愛している。
日本人はクリスチャンでもないくせにキリストの誕生日を祝って、
節操がないという人も一部いるが、そんな声は気にする必要がない。
クリスマスは、文化を超えた、「至福」の一つの形なのだ。
器でいえば、キリスト教よりも、クリスマスの方がうんとでかい。

そもそも遠い昔、12月25日は、キリストの誕生日ではなかった。
キリストが死んで数世紀、キリスト教で大切な日は、
キリストが復活した日(イースター)であり、生まれた日はさして気にされていなかった。
12月25日は、キリスト教が広まる以前ヨーロッパに広まっていた、「冬至」の日だ。
一年で最も昼が短く、再びいづる太陽を願って火を焚き、新しい一年を始めるための日だった。
キリスト教に12月25日は関係がなく、
近い日でいうと、1月6日にキリストが洗礼を受けたとされる日があったくらいだ。

4世紀あたりにバチカンは、
世間の冬至祭の盛り上がりや、冬至に太陽神を崇めるミトラス教を抱き込もうとしたのか、
キリストの誕生日を12月25日に制定する。
また、25日とは別に、キリスト教の聖人・ニコラウスを祝う日が12月6日に制定される。
聖ニクラウスは、民衆に人気の聖人で、
人に知られないようにこっそりと弱者を助けることで知られていた。
貧しい家庭にニクラウスが金貨を投げ入れたおかげで、
娘を身売りせずにすんだという逸話がもとで、
聖ニクラウスは弱者に与えてくれる聖人として知られるようになり、
「聖ニクラウス祭」には、子どもがプレゼントを貰える風習が広まっていった。
この風習が、後のクリスマスプレゼント習慣につながる。

15世紀に入り、クリスマスは宗教革命に巻き込まれる。
「聖人」という概念を認めない宗教革命のリーダー、ルターは、
12月6日の「聖ニクラウス祭」をなくそうと画策する。
しかし、それまで1000年間、毎年毎年、12月6日にプレゼントをもらい続けてきた子ども達は、
そんな大人の横暴を許さない。
別に12月6日でなくてもいいけど、プレゼントは必ずもらうから。
そう大人たちに詰め寄る子ども達の切実さに根負けしたルターは、
12月6日と25日を合体させることを折衷案とし、
12月25日のキリスト誕生日に子ども達がプレゼントを貰うということで、手を打った。
ただ、「聖ニクラウス」は「宗教革命」的にNGなので、
クリスマスファーザーなる男が子ども達にプレゼントを持ってくるという設定にした。
子どもたちはプレゼントが貰えれば、プレゼントを持ってくるのが
ニコラウスでもファーザーでも誰でもよかったので、そこはルターに任せた。
このクリスマスファーザーが、後に、髭を生やし、腹を出して、赤い服を着ることになるのだが、
この頃はまだ、皆のイメージは固まっていない。
ルターに影響されないカトリックの国では、聖人の日がNGになることはなかったので、
宗教革命後も、12月6日と25日は並行して祝われていた。

そして、19世紀に、サンタクロースはトナカイを従えて煙突から入ってくるという設定が固まり、
クリスマスソングもたくさん歌われるようになった。
20世紀には、挿絵やコカコーラの広告によって、サンタクロースは、
白髭・太っちょ・赤い服で高笑いするじいさんというイメージが不動のものになった。

現在、キリスト教を国教とする国でさえ、クリスマスの商業化に批判が出ている。
クリスマスはただのバーゲンセールに成り下がっているというのだ。
キリスト圏でもその体たらく。
日本でどれだけクリスマスがイベント化し、商業化しようと問題はないのだ。
そもそもクリスマスは、冬至のお祭り。
一年の中でもっとも光が失われる時期を、太陽が再生する一年の初日として祝い、
太陽を待ちわびた人々が、火を焚き、神に食いものを捧げ、
焚き火の周りで歌い、食べ、飲んで、死んだ霊とともに踊ったのだ。
一年で最も寒い冬至は、めでたい日であると同時に、
多くの死者や悪魔が寄ってくる日でもあったので、人々は火を絶やさぬように、皆で火の番をした。
つまり、12月25日は、死者が帰ってくる盆と新年の始まりである正月がいっしょに来たような
スペシャルな日だったのだ。
その根源的な祝祭的エネルギーが、クリスマス。
クリスマスからどれだけ高尚な宗教性を引いたとしても、下世話な商業性を足したとしても、
クリスマスが揺らぐことはない。
アメリカのコカコーラが、日本のケンタッキーが、不二家が、赤坂プリンスが
どれだけクリスマスをだしに使おうとしても、
何一つクリスマスの価値が揺らぐことはない。
クリスマスはそんなことで価値が下がるほど小さなものではない。
一神教よりも金儲けよりも、クリスマスは器としてでかいのだ。
西洋人が暖房のきいた家の中、家族で集まって祝うことも、
オーストラリア人が海の上で祝うことも、
日本人がラブホテルで祝うことも、
レコード会社が金儲けのためにつまらないクリスマスカバーアルバムを出させることも、
NASAが衛星でサンタクロースをイブに追跡することも、
親が間違って、プレゼントに値札つけたまま子どもの枕元に置いてしまうことも、
すべてクリスマスは許してくれる。
すべてオッケー。
そのくらい、クリスマスは人間の根源から出てきた、「祝い」なのだ。

今年も、あと一ヶ月ちょっとで、クリスマス。
「MERRY CHRISTMAS」だ。
「MERRY CHRISTMAS」は、信仰とは関係ない、
ブディストでもムズリムでもタオイストでも、誰もが高らかに掛け合っていい言葉だ。
「MERRY CHRISTMAS」は、太古の人々と太古の死者が、
この世界に生きている人間にかけてくれる、祝福の言葉なのだ。